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「針の岩」登頂記

プロローグ

1988年6月12日、17名の男達が3艇のヨットに分乗して新川港を出航し、太平洋に出た。
この翌年の1989年には、日経平均が東証始まって以来の高値38,915円87銭をつけ、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買い占める。まさに日本中が金、金、金で湧き立っていた時代。そんな時代に一銭の金にもならない大冒険に命をかけた男達がいた。

「針の岩」登頂記は、そんな男達の夢の記録です。

「針の岩」とは

(登場人物は、全て敬称略)

「針の岩」は、小笠原諸島聟島列島の北部に位置し、北緯27°40'、東経142°10'の太平洋上にある。
海面から絶壁が聳り立つ土も木もない岩だけの岩山であり、海底となる日本海溝からの高さは8,000メートルをこえ、海底から頂上までの高さはエベレストよりも高くなると言われている。富士火山帯に属し、火成岩質で元々脆い上、内陸部の岩山と違い、洋上にあるため潮風の侵蝕を受けてさらに岩が脆く風化しており、砂糖菓子のように崩れやすい。

針の岩(クリックすると鮮明な画像が現れます)

さらに小笠原近辺は前線が停滞しやすく気象環境は不安定で厳しく、周辺の海は、暗礁が多く船で近づくこともままならない。
「針の岩」の高さは、海抜136mと僅かではあるが、登攀距離は150mを超え、崩れやすい岩質の岩壁であるだけでなく、一帯が国立公園として保護されている場所でもあることからハーケンを打ち込むことができず、クリーンクライミングという手法で登る。
登攀隊長の池沼慧は、7年前、「針の岩」から北西460kmの地点に浮かぶ須美寿島の登頂を目指した。しかし、登攀途中で隊員が落下し、死亡するという大事故を起こしたことから計画を断念せざるを得なかった苦い思い出がある。

 

 

遠征と登攀の計画

(登場人物は、全て敬称略)

出港の2年ほど前、山の男である日本山岳会東海支部の池沼慧は、海の男である碧南ヨットクラブの山田克己に「針の岩」登頂の相談をした。山田克己は、昭和63年(1988年)は碧南市市政40周年になるので、これに絡めて各方面の支援を依頼できないかと考える。その後、東海テレビ、NHK、CBCテレビ、中日新聞などメディア各社にも声をかけ、計画はいよいよ具体化していった。
計画は、碧南市市政40周年記念事業として位置付けられ、実行委員会を結成し、実行委員長に山田克己が就任した。主催は、聟島列島針之岩登頂実行委員会であり、共催に碧南市、碧南市教育委員会、碧南ヨット協会、日本山岳会東海支部、中日新聞社が名を連ねた。後援は、碧南市体育協会となった。

隊の名称
「海と山の男 聟島列島針之岩へ挑戦」

隊の目的
① 海の男と山の男の交歓
② 聟島列島針之岩登頂
③ 海底調査及び自然探索
④ 小笠原返還20周年参加
⑤ 碧南市民への報告

隊の構成
総指揮      1名 山田克己
登山隊総隊長   1名 尾上 昇
登攀隊長     1名 池沼 慧
ヨットメンバー 計10名  高須洪吉、水野範彦、藤田征男、山崎光春、山田克己、萬田憲一、榊原 司、鈴木紀克、安藤康治、神谷友之
登山隊員    計6名 池沼 慧、常田 進、鮎沢清次、小林 亘、葛谷 靖、森本 学
報道・カメラマン 1名 山田伝夫(中日新聞)

期間
1988年6月12日〜7月3日

経費
総額 ¥13,888,360

フライング、白雲、フジⅢ(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

遠征に使用するヨットは、フライング、白雲、フジⅢの3艇

 

 

 

安否確認・進捗確認
3艇のヨットは、1日に3回(08:30、16:00、21:00)無線で地上局(碧南ヨットハムクラブ、他)とロールコールを行い、安全の確保と進捗のチェックを行う。

 

 

出港

(登場人物は、全て敬称略)

1988年6月12日12:00、小雨降る中、出航式には碧南市長の小林淳三、隊員の家族、衣浦港で活動する各ヨットクラブ関係者、日本山岳会関係者、報道陣、他多くの市民などが集まり、主催者代表の碧南市長小林淳三が実行委員長の山田克己に碧南市旗を手渡した。碧南市旗は、「針の岩」を登頂したのち、頂上で掲げる計画である。

花束贈呈(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

祝いの打ち上げ花火が鳴り響く中、碧南高校、碧南工業高校ヨット部の女子部員から花束が山田実行委員長をはじめ隊員たちに手渡された。

 

 

 

出航式を終えた隊員たちは、港内に舫っているフライング、白雲、フジⅢの3艇のヨットに分乗し、舫を解くと静かに岸を離れた。見送りの市民らは、岸壁に並び力一杯手を振って「無事な航海を・・・」「元気で、頑張って・・・」など声援を送り、雨に濡れるのもいとわず、いつまでも名残惜しそうにしていた。

3艇は帆を挙げ、マスト中央に小林市長から贈られた碧南市旗をはためかせ、船首には、碧南高校、碧南工業高校のヨット部女子部員から贈られた花束を飾り、声援に応えるように港内をゆっくりと3周すると新川港の灯台の横をすり抜け、衣浦港に出た。

防波堤から見送り(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

新川港の灯台のある突堤には碧南高校、碧南工業高校のヨット部員が並び、校旗を振って大声で校歌を歌い出航する隊員たちを励ました。海洋少年団員達も突堤に並び、ヨットに向けて「成功を祈る」と手旗信号を送った。

見送りのヨット、ボートは碧南ヨットクラブのみならず、衣浦港で活動する他のヨットクラブに所属するヨットやモーターボートなど多数の見送り艇が伴走し、衣浦港の防潮堤の外まで見送った。

向かうのは小笠原諸島の聟島列島にある「針の岩」。碧南ヨットクラブの海の男たちが「針の岩」登頂を目指す日本山岳会東海支部の山男たちをヨットに乗せて片道1週間を航海し、「針の岩」近くでゴムボートに登攀隊員が乗り移り、数多くの暗礁がひしめく中ゴムボートで「針の岩」に上陸し、脆い岩壁を登り、登頂し、登攀隊員が戻るまでヨットは待機する。その間、潜水隊員たちは、海に潜り、海洋生物の写真を撮り、自然探索を行う。無事登頂を果たし、登攀隊員が船に戻ったら父島に行き、小笠原返還20周年記念行事に参加し、その後、全員で帰港するという一大プロジェクト。計画を小笠原村役場と話したところ、「針の岩」登頂には当初反対された。「針の岩」は国立公園の特別保護区になっており、自然を破壊することは許されないという。遠征隊は、ハーケンを打ち込むなど自然を破壊する行為は一切せず、クリーン・クライミングという手法で自然に影響を及ぼさない方法で臨むとの説明で了承を得られ、計画がスタートした。

太平洋に出る

(登場人物は、全て敬称略)

出航後、夕刻には伊良湖水道を抜け、13日の朝には大王崎の沖に達した。太平洋に出ると3mを超す波に揺られ、海に慣れていない山の男は船酔いに苦しめられる。
しかし、13日の午後には3艇の乗員全員が体調を回復させ、食事も全部平らげた。フライングがケンケンを流したが全く釣れなかった。夕方、真っ赤に燃える太陽が落ちるその様子は、息を呑むほど美しい。フジⅢでは、藤田船長がハーモニカを吹く。夕暮れ時に波の音しか聞こえない太平洋の上を渡るハーモニカの哀愁を帯びたメロディーが、なんとも切なく心に響く。

船上で乾杯(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

14日には、元気に晴れ渡る太平洋の航海を楽しんだ。3艇は、お互いに無線で連絡を取り合い、お互いの位置を確認して航海し、互いに離れすぎないようスピードを調整した。しかし、まだ一部の登山隊員は体調不良でキャビンでまぐろ状態になり横たわっていた。

15日 鳥島を発見した。午前中、フジⅢがエンジントラブルを起こし、フライングとドッキングしてフライングから神谷整備士の他1名がフジⅢに乗り移り、エンジントラブルを解消し、2艇は並走した。

15日 午前11:10頃、白雲の船内に大量のイカが飛び込んできて、全員で食べきれなくて干物にするか塩辛にするかを検討した。ブルーマリンカジキが波の上を飛び跳ねる。クジラにも出会った。登攀隊員がようやく船酔いから完全回復した。夕陽が西の空すべてを真っ赤に燃やして沈む。この世のものとも思えない光景だった。

談笑する実行委員長の山田克己と登攀隊長の池沼慧。中日新聞社提供写真(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

16日フライングの無線機が故障、フジⅢの中継で修理を行う。フライングとフジⅢは、お互いの航海灯の見える位置で航行した。イルカ50頭が近くに来る。
17日 白雲、フライングともに無線機の調子が悪く、本土との交信はフジⅢのみが行う。フジⅢが1mのシイラを釣ったとのこと。風が強くなり、波も9mの高さになった。
陸上本部から緊急連絡が入り、直接「針の岩」に行くのではなく、父島二見港に入港せよとの指示。小笠原村役場とは、すでに「針の岩」登頂計画に関しての合意はできていたが、地元の漁民達から「登頂のふりをして禁漁になっているエビを捕るのではないか」との声が上がり、疑念を晴らすために急遽小笠原村役場に立ち寄ることになった。
17日 17:00には、「針の岩」まで約40マイル(NM)に近づいた。夜、フジⅢではお馴染みとなった船長のハーモニカが聴こえる。ハーモニカの音色が波の上を伝い、その先の黒い水平線の上には、満天の星が輝く夜空がひろがる。満天の星は、海に降り注ぐように煌めき、瞬き、美しいというよりも恐ろしさを感じさせるほどに神秘的で、隊員たちが経験してきた夜空とはかけ離れていた。

無線連絡をする実行委員長
中日新聞社提供写真(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

18日 8:00過ぎに小笠原父島二見港に白雲、フライングが接岸した。フジⅢは、8:50ごろに接岸。もともと登頂隊の計画は国立公園の特別保護区になっている自然環境に影響を及ぼさないことを大前提に臨んでいたため「エビを捕る」誤解はすぐに解消した。無駄な時間のように思えたが、地上に上陸し、しばらくそこで過ごしたことにより、長時間の航海による揺れの感覚を覚ますのに役立った。

 

登攀開始

(登場人物は、全て敬称略)

19日 通信記録には、午前5:15 「針の岩」沖到着とある。(父島二見港から「針の岩」沖までは36マイル(NM)5.5ノットの船速で行ったとすると18日の23:00頃に二見港を出港したと思われる。)
7:00 波が高く、上陸は困難。待機を余儀なくされる。
7:30 山岳員5名、カメラマン1名が「針の岩」上陸開始。後、カメラマンは下山。
9:00 風速10mの中、北東面より登頂を開始する。
9:40 潜水隊が潜水を開始。海中の魚の撮影を行う。潜水隊も登攀隊の登頂に合わせて海中で碧南市旗を掲げる。
10:00 中日新聞社ハヤタカⅡ(双発機)小牧飛行場を離陸。

脆い岩壁を登る。(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

12:00  登攀隊員5名は、最年少の小林亘隊員を先頭にアタック。途中、2パーティーに分かれ、第3Pの地点に達したが真夏の日差しによる暑さと潮風による予想以上の風化で岩が脆く、難攻した。登頂には2~3時間かかりそうとの連絡がヨットで待つ隊員たちに伝わった。「針の岩」は、国立公園の特別保護区になっているため、岩を破壊する恐れのあるハーケンを打ち込むことができず、クリーン・クライミングと呼ばれる手法で登攀を行う必要があった。そのため確保に苦労し、時間がかかる。

13:00前、頂上までもう1P地点、100m近くまで登った。しかし、後40mというところで90°を超えるオーバーハングが反り返り、隊員は天を仰ぐばかりでルートが開けず。隊員の無線連絡では18:00ごろ登頂の予定。しかし、登頂断念の可能性もあり得る。岩質は足をかけただけでもズルーと滑る状態で砂利を固めただけのような岩質。

15:15 小林亘隊員がオーバーハングをクリア。頂上まであと20m。ガスがかかり始めてきた。
15:45 残りの隊員は、1名だけがオーバーハングの途中にいる状況となった。
16:30  オーバーハングを全員がクリアし、ゆっくりと登っている。天候晴れ、西日が差し始めている。 潜水隊は、登攀隊の登頂に合わせて海中で碧南市旗を掲げるため潜水。

ヨットが海上で見守る中、登攀する山岳隊員達。脆い岩壁を登る。(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

登頂し、碧南市旗を掲げる隊員達。(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

16:50 全員登頂成功。
ガスがかかっていて下からは見えにくい。
中日新聞社機ハヤタカが登攀隊員たちの頭上を何度も旋回し、登頂成功を祝福した。

18:00 全員下山完了し、ヨットに乗り移る。

19:20 「針の岩」を出発し、父島に向かう。

登頂後

(登場人物は、全て敬称略)

20日 10:30 父島二見港に入港した。
小笠原村役場の産業課が来船した。その後、総務課へ行き、お礼を言い、漁業協同組合に行き、お礼を言い、組合長にお礼を言い、と挨拶が続いた。
一方で関係各所、報道各社に無線で無事登頂を果たしたことを連絡し、お礼を述べた。
LOG BOOKには、その時のメモが書かれている。

LOGBOOK_6月20日_登頂後1(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

LOGBOOK_6月20日_登頂後2(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

LOGBOOK_6月21日_登頂後3(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、小笠原日本復帰20周年の記念式に出席し、6月26日14:00に父島を出港し、7月3日に碧南市新川港に帰港した。

三河湾に3艇の遠征隊ヨットが入ると出迎えのヨットやモーターボートが集まってきた。歓迎を受ける中、3艇のヨットは、衣浦港を進み、新川港に着岸した。
そしてそこで、帰港式が行われ、「お帰りなさい針の岩登頂隊」と描かれた歓迎のアーチを上陸した隊員達は潜り、市長はじめ来賓、ヨット関係者、山岳関係者、報道陣、多くの一般市民が参列する中、実行委員長から市長に碧南市旗が手渡され、帰港報告とお礼を述べた。

打ち上げ花火が30発ほど打ち上げられ、隊員達の明るい笑顔を彩った。

「針の岩」登頂隊は、帰港後、各方面、さまざまな方から祝福をいただいた。
当時の運輸大臣であり、日本外洋帆走協会会長でもあった石原慎太郎からの祝電も届いた。

日本外洋帆走協会会長 石原慎太郎からの祝電。(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

登頂成功のニュースは新聞にも大々的に報道された。

帰港後の新聞記事1

帰港後の新聞記事2

3艇のヨットの行きの航路は、下記のチャートに示す。

航路

エピローグ

(登場人物は、全て敬称略)

帰港後は、様々なところで講演をしたり、メディアに取り上げられたりと忙しい日々が続いたが、実行委員長の山田克己の胸にはある想いが去来していた。

それは、ある本の一節に「男の涙は親が死んだ時に流すものだ」という節があるが、「感激した時は、男であっても泣いていいのではないか」、という想いだった。

山田克己は、その思いをLOG BOOKの最後に書き留めている。

帰港後のある日のLOG BOOK。(写真をクリックすると鮮明な画像が現れます。)

文責 碧南ヨットクラブ沿革編纂会議 近藤史人