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碧南ヨットクラブ沿革

碧南ヨットクラブの環境

碧南ヨットクラブは、愛知県碧南市の新川港にヨットハーバーを設けて活動している。新川港がある衣浦港は、古くは、衣ヶ浦と呼ばれる入江で、尾張国と三河国を分ける水路であり、この水路の東と西では話す言葉も尾張弁、三河弁と異なっていた。古くからここは、頻繁に船が往来する重要な輸送路であり、江戸時代には、高浜、碧南で作られる三州瓦の出荷拠点となっていた。

家康伊賀越上陸の地のぼり

碧南市には、新川港の他に大浜漁港があり、大浜漁港は明智光秀が本能寺の変で織田信長を殺害した際に34名の手勢だけで堺にいた徳川家康が危機を感じて伊賀越えをし、伊勢国長太(三重県白子)から船で海を渡り、三河国大浜にたどり着いたとされる港であり、その時上陸し、匿われた稲荷社は、今も健在である。NHKの大河ドラマ「どうする家康」では、大浜という地名は省略され、三河に船で逃げ延びたとしか紹介されなかったが、家康は間違いなく、この大浜の海岸に到着しました。

家康伊賀越上陸の地看板

 

漁港として現在も栄えている大浜港に対し、新川港は、長く商工港として栄え、この地区の特産物である三州瓦の出荷のみならず、戦後は輸入木材の貯木場として栄えてきたが、現在は、ヨットのメッカとして高校生のディンギーから大人のセーリングクルーザーまで、この港を拠点にして活動している。

碧南ヨットクラブの誕生 (昭和40年 1965年 〜 昭和62年 1987年)

(登場人物は、全て敬称略)

碧南ヨットクラブの誕生

山田克己の物語

昭和40年(1965年)第20回岐阜国民体育大会で碧南高校がスナイプで準優勝。これを機に碧南市のヨット熱が急速に盛り上がる。
昭和42年(1967年)に碧南高校、碧南工業高校のヨット部ヘッドコーチに就任した山田克己は、新川港を拠点にして活発にヨットの指導をし、現在に至るまでの長きにわたり数々の国体、インターハイでの優勝を勝ち取ることになる。
昭和49年(1974年)世界一周を終えた高須洪吉が、世界一周艇<白雲>を新川港に係留するようになり、徐々にヨットが新川港に集まるようになり、碧南高校、碧南工業高校のヨット部OBを中心にして碧南ヨットクラブが誕生し、山田克己が初代の碧南ヨットクラブ会長となった。
昭和51年(1976年)山田克己は、佐賀国民体育大会愛知県少年の部の監督として参加。
昭和56年(1981年)山田克己は、碧南ヨットクラブ所属艇のモランボンに乗艇し、第2回小笠原レースに参加した。
この時の乗艇者は、艇長の成田留雄、モランボンクルーの峰本靖樹、碧南ヨットクラブ会長の山田克己、邨瀬愛彦、永井浩行、大橋旦典(<モランボン>のデザイナー、後、<ベンガル7:46フィート>のデザインをする)、他1名。成績は総合5位、クラスVI、Vで優勝であった。
昭和57年(1982年)山田克己は、碧南ヨットクラブ所属艇のモランボンに乗艇し、第6回沖縄ー東京レースに参加した。
この時の乗艇者は、艇長の成田留雄、モランボンクルーの峰本靖樹、モランボンクルーのヤクマルさん、碧南ヨットクラブ会長の山田克己、加藤さん、マンダさん、上野政正<シャンティ>。成績は総合13位、クラス6位であった。

高校生のヨット部の指導に関わる傍ら、高須洪吉が新川港に<白雲>を係留すると碧南ヨットクラブの創設に積極的に関わり、初代の会長として数々の困難を克服し、現在の碧南ヨットクラブの礎を築き、ヨットハーバーの建設に尽力した。

高須洪吉の物語

昭和42年(1967年)24歳だった高須洪吉は、ヨットに乗りたくて「舵」誌に出ていたクルー募集に応募し、勤めていた会社を辞めて相模湾にある佐島マリーナに引っ越し、俳優の故森繁久弥氏の持ち船で73フィートのケッチ<ふじやま丸>のクルーとなり操船・整備を勤める。 その後、地元半田に戻った高須洪吉は、仲間と自作した木造艇<白雲>で昭和44年(1969年)5月29日、半田市長初め1,000名を超す盛大な見送りを受けて世界一周へ向けて半田を出港した。榊原伊三艇長、高須洪吉、新美春光、石垣洋一の4名が乗り込んだ白雲は、太平洋を横断し、パナマ運河を経て南米大陸東岸を辿り、希望峰を回ってインド洋に抜ける予定だったが、途中、トリニダード・トバゴで新美が体調を崩し、帰国することになった。そのため高須が日本まで付き添うことになり、一旦新美と高須は<白雲>を離れた。その後<白雲>は、リオデジャネイロまで航海し、リオデジャネイロで高須洪吉は再び<白雲>に戻り、以後、ケープタウン、フリーマントル、シドニー、ブリスベーン、ラバウル、グアム、小笠原とすべての航程で航海を続け、 昭和46  年(1971年)6月29日に衣浦港に帰港した。

ケープタウンに入港した<白雲>中央が高須洪吉。(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

インド洋の夕焼け、ワッチする高須洪吉。(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

3度のデスマスト(マストを折ること)に遭い、泥棒に遭い、新美、石垣の2名が体調を崩して途中脱落するなど大変な苦労を重ねながらも<白雲>は無事、半田に戻り、武豊港に<白雲>を係留した。しばらく時間が経ち、乗り手のないまま武豊に放置されていた<白雲>をこのまま放置しておいてはいけないと高須洪吉が仲間から買取り、新川港に係留した。そこで高須は、山田克己と出会い、ヨットの想いを話し合い、意気投合し、ここから碧南ヨットクラブの歴史が始まる。

白雲(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

<白雲>が係留を始めると周りにヨット愛好家が少しづつ集まりヨットを係留するようになり、昭和49年(1974年)に碧南高校、碧南工業高校のヨット部OBを中心にして碧南ヨットクラブが誕生し、山田克己が初代の碧南ヨットクラブ会長となった。

世界一周を終えた<白雲>は、54年経過した2023年でも現役セーリングクルーザーとして碧南ヨットクラブのポンツーンに係留し、セーリングを楽しんでいる。

邨瀬愛彦の物語

後に<ベンガル7>、<ホライゾンVI>のオーナーでありキャプテンとして「メルボルン大阪ダブルハンドレース」、「トランスパシフィックヨットレース」、「シドニーホバートレース」など数々の国際外洋ヨットレースで好成績を収めることになる日本を代表するセーラー邨瀬愛彦が最初に所有した<ウイング・オブ・ホライゾン>を昭和51年(1976年)に新川港に係留し、山田克己、高須洪吉と出会い、ヨットの想いを語り合い、意気投合する。
高須洪吉の碧南ヨットクラブの会員番号は1番、邨瀬愛彦の会員番号は、4番である。邨瀬は、高須洪吉と一緒に<白雲>で佐久島などをクルージングする日々を送っているうちに外洋レースへの思いが次第に強くなる。
そして、昭和52年(1977年)邨瀬愛彦と高須洪吉は碧南ヨットクラブ所属艇<オリオン>に乗り「鳥羽パールレース」に出場。その翌年、昭和53年(1978年)邨瀬は、<ホライゾンII>(ピーターソン30)に乗り換える。昭和54年(1979年)には<ホライズンIII>(デュボア23)も購入し、翌年の昭和55年(1980年)<ホライゾンIII>(デュボア23)で洲本サントピアマリーナで行われたミニトン全日本選手権に出場した。さらに昭和58年(1983年)には<ホライズンV>(横山30)に乗り換え、昭和62年(1987年)邨瀬愛彦は<ホライゾンV>で鳥羽パールレースで総合優勝を勝ち取る。
以後、邨瀬は、碧南ヨットクラブの会員として数々の国内外オフショアレースに出場し、好成績を収め、その名を海外にまで轟かせることになる。邨瀬愛彦は、平成16年(2004年)に活動拠点を3年前にオープンしたラグーナ蒲郡に移すことになるが、それまでに彼が残した実績は以下の通り。

平成3年(1991年) 小林正和から借りた<ベンガルII>でメルボルン大阪ダブルハンドレースに出場
平成6年(1994年) <ベンガルII>で環太平洋ヨットレースに出場、上海から関西国際空港のコースで優勝
平成7年(1995年) <ベンガルII>でメルボルン大阪ダブルハンドレースに出場し、4位入賞
平成7年(1995年) <ベンガルII>で鳥羽パールレースでファーストホーム
平成8年(1996年) <ベンガルII>で鳥羽パールレースでファーストホーム
平成9年(1997年) <ベンガルII>でセイル大阪1997で4位入賞
平成10年(1998年) <ベンガルII>で火山島レースに参加
平成11年(1999年) <ベンガルII>で火山島レースに参加
平成12年(2000年) <ベンガルII>で沖縄レースの大阪コースでファーストホームで完全優勝。
<ベンガルII>で火山島レースに参加
平成13年(2001年) <ベンガルII>でトランスパックレースに出場、クラスでのファーストホーム、クラス3位入賞を果たす。また最北航行艇と最優秀外国艇の特別賞にも輝いた
平成14年(2002年) <ベンガルII>でパシフィックカップレースに出場、クラスのファーストホームを果たす
平成15年(2003年) <ホライズンVI>(横山30R)で全日本ミドルボート選手権で優勝
平成15年(2003年) <ベンガルII>でトランスパックレースに出場
その他のレーサー会員の活動

 

昭和56年(1981年) 成田留雄<モランボン>は、第2回小笠原レースに参加。総合5位、クラスVI、Vで優勝
碧南ヨットクラブからは、会長の山田克己、邨瀬愛彦<ホライゾンIII>、峰本靖樹、永井浩行が乗艇している
昭和57年(1982年) 成田留雄<モランボン>は、第6回沖縄ー東京レースに参加。総合13位、クラス5位。
碧南ヨットクラブからは、会長の山田克己、上野政正<シャンティ>、峰本靖樹、ヤクマルさん、加藤さん、マンダさんが乗艇している

愛知県、碧南市との交渉

昭和49年(1974年)に碧南ヨットクラブが発足して以後、新川港に係留されるヨットの数は次第に増え、昭和59年(1984年)頃には30隻以上になっていた。この頃から山田克己は、新川港の水域占用とパイルやポンツーンなどの工作物設置の許可などの交渉を愛知県の衣浦港務所を相手に行うが、当時は、新川港は商工港であり、容易には認められなかった。
昭和60年(1985年)5月に愛知県の港湾管理条例が改正され、新川港と半田市の武豊港の2港がヨット泊地として認定され、ヨットの係留に充分な水深を確保するため、新川港の浚渫が行われることとなり、碧南ヨットクラブのヨットは、一時的に亀崎港に退避していた。
昭和61年(1986年)頃には、ヨットは40隻弱に増えていた。この頃の会員名簿を見ると、2023年現在でも会員として活発に活動している高須洪吉<白雲>をはじめ、栗田康正<萩>、屋代三樹・鳥居節郎<野武士>、堀池哲生<IBIZA>、市川裕通<エルバ>、杉田雄二<Southern Wind>など錚々たる面々が名を連ねている。
この頃には、国や県の政策も港の整備に力を入れるようになり、港に自由係留されている船を一箇所にまとめて管理する方向に動きが進んだ。

埋め立て前の新川港(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

県に対する交渉の一方で碧南市に対しては、地元碧南市民である市川裕通<エルバ>が市との人脈を活用して碧南市の体育協会などに働きかけ、碧南ヨット協会を立ち上げ、その傘下にクルーザー主体の碧南ヨットクラブ、ディンギー主体の碧南セーリングクラブが入るようにして市からの協力が得られるように動いた。
この当時の新川港のヨットが係留されている堤防は、堤防の先に灯台がある1本の細い堤防のみで、現在、工場などが建っている埋立地はなく堤防のすぐ外が衣浦港だった。写真の黄色の線で囲われた部分は、平成6年(1994年)頃に埋め立てられたもので、当時は細い堤防が伸びていてその内側にヨットを係留していた。

灯台の跡(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

堤防の先には、灯台があったが、現在は、取り払われ台だけが残っている。灯台は、平成9年(1997年)に上の部分だけを碧南海浜水族館の前、平成4年(1992年)に単独で世界一周した<ボヘミアンII>が展示されている前に移築され、現在も展示されている。

旧新川港灯台(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

この時代の社会の出来事
昭和39年(1964年) 東京オリンピック開催 
昭和45年(1970年) 大阪万博開催、三島由紀夫自決 
昭和47年(1972年) 浅間山荘事件 
昭和48年(1973年) 第1次オイルショック
昭和50年(1975年) 沖縄海洋博主催 ‘75太平洋横断単独レースで戸塚宏が<ウイング・オブ・ヤマハ>で優勝
昭和54年(1979年) 第2次オイルショック
昭和58年(1983年) 第25回アメリカズカップでデニス・コナー率いるアメリカがオーストラリアに敗れる
昭和60年(1985年) プラザ合意が締結された
昭和62年(1987年) 83年に敗れたデニス・コナーがオーストラリアを破り、アメリカにカップを持ち帰った

 

碧南ヨットクラブの発展(昭和63年 1988年 〜 平成9年 1997年)

(登場人物は、全て敬称略)

設備の拡充

「針の岩」登頂成功

昭和63年(1988年)碧南ヨットクラブの発展を語る上で外すことのできない重要なイベントが立ち上がった。それは、「針の岩」登頂である。「針の岩」とは、小笠原諸島の聟島列島にある8,000メートルもの深さの日本海溝の海底から空中に聳り立つ136メートルの岸壁で、未だ人類が登頂した事のない未踏峰であった。この未踏峰に初登頂を目指す日本山岳会東海支部の山男たちを碧南ヨットクラブのヨット3艇が新川港から小笠原諸島聟島列島「針の岩」まで運び、その登頂を支援するという大冒険である。山男を運ぶと言ってもフェリーや大型客船に乗せて行くわけではなく、小さなヨット3艇に分乗して行くのである。小笠原諸島へヨットで行くというだけでも大変な冒険となるが、さらに岩場が多くヨットが近寄る事の困難な「針の岩」にゴムボートで上陸し、脆い岩壁をハーケンを使わずにクリーンクライミングという自然環境を破壊しない技術で登るという大冒険である。このイベントは、碧南市の市政40周年記念行事として位置付けられ、市長はじめ市の体育協会、新聞やNHKや民放などのメディアなど数多くの関係者が一丸となって進めた事業であった。この大事業については、この章だけで描ききることは困難なので詳細は、「針の岩」登頂記を参照していただきたい。

数々の困難があったが、とにかくこの大冒険は一人の怪我人も出すことなく、大成功に終わった。碧南市の市政40周年を記念する事業として成功を収めたことにより、碧南ヨットクラブは、数々の賞賛を得ることができ、その後の碧南ヨットクラブのポンツーンの建設など設備の拡充に大きく影響を与えた。

ポンツーンの完成

平成元年(1989年)、当時の会長である山田克己は、中日新聞のインタビューにこう答えている。「針の岩登頂で得た自信が、ヨットハーバー完成に繋がった。」
この年、碧南ヨットクラブは、第1期工事として南側2本のポンツーンを完成させる。ポンツーンは、防波堤からギャングウエイを降りて、海底に打ち込まれた両側のパイルに沿って西ドイツ製のポリエステルの浮力体を数多く繋ぎ合わせて水面に廊下のようなものを作ったものであり、ジェットポンツーンと呼んでいる。そこにヨットを槍付けした。枝ポンツーンもなく、板張りのポンツーンでもないが、高低差のある防波堤から槍付けしているヨットに乗り込んでいた当時としては、潮の満ち引きに合わせて上下してくれる浮き桟橋であり、船の高さまで安全に降りることができるギャングウエイのついた画期的な設備であった。さらにこのポンツーンに係留することにより、台風に対しても被害が少なくなり、会員にとってはまさに待望の設備であった。その後、第2期工事で3本目のポンツーンをジェットポンツーンで建設、一番北側となる4本目はパイルが片側しかないのでジェットポンツーンを入れることができず、木製のポンツーンを建設した。これで碧南ヨットクラブのハーバーは南から順にA,B,C,Dと、全てがポンツーンとして利用可能になった。

会員の活動

渡邉起世の物語

後に単独でヨットの世界一周を果たすことになる渡邉起世は、平成元年(1989年)当時は、西浦半島の倉舞港にある名鉄西浦マリーナにヨットを係留しているヨットマンであった。この年に渡邉は、碧南ヨットクラブの水野範彦<フライング>と藤田柾男<フジIII>から碧南ヨットクラブへ来ないかと誘いを受ける。この何年か前に渡邉と水野、藤田は、レーダーの免許取得講習に参加して知り合いになっていたらしい。渡邉と水野は、家も近く、たちまち呑み友達になったようである。水野達の誘いは、碧南にヨットマンが自らの手でヨットハーバーを建設しており、自主的に管理・運営する碧南ヨットクラブが立ち上がった。現在、ポンツーンの建設をしているところであり、会員を多く集めたいので来て欲しいと言う話だった。何事にも好奇心の強い渡邉は、自主管理のヨットクラブという理念に共感し、是非とも仲間に入れて欲しいと伝えた。早速、渡邉は名鉄西浦マリーナに退会届を出し、碧南ヨットクラブの入会手続きを進めようとしたが、名鉄西浦マリーナは営利団体であり、会員を手放すことを渋った。「何かご不満がおありでしょうか?」と渡邉を引き止めにかかり、ずるずると退会できないまま時が過ぎていく。
平成2年(1990年)6月4日、渡邉は長年計画してきたヨット<ボヘミアンII>による世界一周を果たすため名鉄西浦マリーナを出港した。<ボヘミアンII>の世界一周に関しては、「ボヘミアンII世界周航記」や渡邉のホームページに詳しく記載されているのでそちらを参照していただきたい。

エジプトポートサイドにてスエズ運河航行手続きを行なう。(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

様々なドラマがあったものの平成4年(1992年)5月31日に渡邉は<ボヘミアンII>で無事、名鉄西浦マリーナに帰港した。そしてその翌年か翌々年(記憶が定かでなく、記録も残っていない)、渡邉は晴れて正式に碧南ヨットクラブの会員となり、拠点を碧南市新川港の碧南ヨットクラブのハーバーに移した。平成7年(1995年)には、渡邉の船検証がクラブに残っている。平成7年(1995年)渡邉は、「ボヘミアンII世界周航記」を出版するが、渡邉の記憶では、「ボヘミアンII世界周航記」の出版の前に碧南ヨットクラブに移転しているという。名古屋東急ホテルで行われた「ボヘミアンII世界周航記」出版記念パーティーは、碧南ヨットクラブ会長の山田克己、水野範彦<フライング>、藤田柾男<フジIII>も出版記念パーティー共同開催の立場で参加し、渡邉の出版を一緒に祝った。

「ボヘミアンII世界周航記」の出版を祝福する碧南ヨットクラブ会長の山田克己(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

平成12年(2000年)世界一周艇である<ボヘミアンII>は、碧南市に寄贈され、碧南水族館前に永久展示されることとなった。そしてその翌年の平成8年(2001年)渡邉はこの寄贈が元で時の内閣総理大臣小泉純一郎から「紺綬褒章」が授与され、碧南市長からそれを伝達された。
碧南ヨットクラブでは、この世界一周を冠にしたヨットレース「ボヘミアンカップ」を現在に至るまで毎年開催しているが、このカップは、当時の碧南市長から贈呈されたものである。

ボヘミアンカップ、スタート時の様子。(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

ボヘミアンカップ贈呈(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

渡邉起世は、令和5年(2023年)現在もトリマラン(船体が3本ある双胴船)の<ボヘミアンVI>(Dragonfly28)を愛用し、碧南ヨットクラブの会員としてセーリングを楽しんでいる。

安藤康治の物語

昭和53年(1978年)安藤は、碧南ヨットクラブ所属艇<グリーングラス>のクルーとして碧南ヨットクラブに入会した。名古屋の工務店に勤めていた安藤は、仕事をしながらヨットライフを楽しむ幸福な日々を送っていた。しかし、仕事は次第に忙しくなり、激務の末、ついに体調を壊し、絶対安静で3週間、病院で過ごすことになる。退院した翌年、昭和63年(1988年)「針の岩」登頂のプロジェクトが発表され、病院のベッドでヨットに乗りたい思いを募らせていた安藤は、職場に3週間の休暇願いを出して「針の岩」登頂プロジェクトに参加することになった。安藤にとって初めての体験となったこの外洋航海がその後の安藤の運命を決定づけることになる。翌年の平成元年(1989年)早々、安藤は会社に辞表を提出し、ヨットで生きていくことを決意する。そしてその年の4月、「針の岩」プロジェクトに参加した<フライング>のオーナーである水野範彦と<フライング>で日本一周の旅に出た。日本一周の途中でナホトカ〜室蘭レースにも参加し、外洋レースの味を知ることとなる。フライングの日本一周はフライングの「日本周航記」として舵誌やクルージングワールド誌に連載され、それを読んでいた邨瀬愛彦が、平成3年(1991年)の第2回メルボルン大阪ダブルハンドレースに出場するため、<ベンガルII>を碧南からメルボルンまで回航するクルーをやらないかと声をかける。これがその後の安藤と邨瀬の長く続く付き合いの始まりであった。平成2年(1990年)12月安藤はチームベンガルの一員として碧南からシドニーに向けて出港した。シドニー到着後、さらにメルボルンまで<ベンガルII>を回航する。回航の乗員は6名、新川港の堤防には150名もの人々が出航を見送りに集まったという。「針の岩」登頂プロジェクト以来の出来事であった。
平成5年(1993年)小樽のレースに碧南ヨットクラブから3艇が参加した。安藤は34フィート艇の<ポコ>のクルーとして参加し、そのレースに参加していたソ連のチームからサハリンに来ないかと誘いを受ける。<ポコ>と<ララ>の2艇がソ連のヨットに誘われ、サハリンへの船旅をしている最中、安藤は、ワッチの休憩時、バースで寝ていてざわつく気配に目が覚めると目の前に銃口を突きつけられていた。見上げると兵士が黒光りする銃身をこちらに向けて立っている。安藤はジェームス・ボンドではない。抵抗しないで手をあげて、ホールドアップ。ソ連の警備艇が臨時検査でヨットに乗り込んできたらしい。ヨットレースの帰りにサハリンに立ち寄るところだとソ連のヨットの乗員が説明し、不審船ではないことがわかり、解放された。
平成6年(1994年)環太平洋ヨットレースに<ベンガルII>がエントリーし、邨瀬からスタート地点となる上海まで<ベンガルII>を回航し、その後、クルーとしてレースに参加することを依頼された安藤は、快くこれを引き受けた。
平成7年(1995年)邨瀬にとって2回目の挑戦となるメルボルン大阪ダブルハンドレースで、安藤はメルボルンまでの回航のキャプテンを任された。これ以後、チームベンガルの出場する全ての海外レースで、安藤は回航チームのキャプテンを務め、クルーとしても乗船し、邨瀬が拠点をラグーナ蒲郡に移した後も邨瀬にとって切り離すことのできない片腕となる。安藤が「針の岩」登頂プロジェクトで初めて外洋に出てから2013年8月までに回航とレースで帆走った距離は、123,450マイルでこれは、回航2万マイル 太平洋の記憶、ベンガルの軌跡という本に書かれている。しかし、安藤はその後も邨瀬に請われてシドニーホバートレースやその他数々な国際レースで回航キャプテンとクルーを務めており、その総帆走距離は、14万マイル以上になるという。地球一周が21,639マイルなのでおよそ地球を6周半、ヨットで回ったことになる。コロンブスが航海した距離が約8,000マイル、マゼランが世界周航で航海した距離が約4万2,000マイル、ドレーク海峡の名前の元となったフランシス・ドレークが世界周航した時の航海した距離が約4万5,000マイル。マゼランやドレークは世界周航以外にもいくつか長距離航海をしているので、合計の距離はもう少し伸びるだろうし、時代もテクノロジーも全く違うので単純に比較はできないが、それにしても14万マイルという航海距離は、とてつもない偉業と言って良いのではないだろうか。
日本を代表する国際オフショアレーサー邨瀬愛彦を支えるボースンとして安藤は「舵誌」の表紙を飾ったこともある。

舵誌の表紙を飾る安藤(最前列)(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

邨瀬が2012年のシドニー・ホバートレースに出場することを決意し、新造艇を作っている時間的余裕はないと判断し、新中古艇を探し、イギリスに54フィートで建造後1年ほどしか経っていない艇を見つけた時、現地までそれを検討しにいく際、同行させたのは安藤であった。これほどまでに邨瀬から信頼され、回航キャプテンとクルーを務める安藤は、一方で安藤マリンというヨットの回航と整備を生業とする事業も手掛けており、碧南ヨットクラブにとっては、ハーバーマスター的な存在となり、「何か困ったときはアンちゃん」と誰もが頼りにする存在となっている。さらに碧南ヨットクラブでは、<風小僧>というYAMAHA31EXのチームの一員として酒好きなオーナーの梛野徳光と共にクラブレースに出ることを楽しんでもいる。

第11回 J24全日本選手権大会の開催

平成3年(1991年)、第11回J24全日本選手権大会を碧南ヨットクラブを開催地として開催した。
碧南ヨットクラブからの出場艇は、中根彰紀<フェルデフォン>5位、上野政正<K&K>10位という成績を収めている。ちなみに上野政正は、山田克己の教え子で碧南セーリングクラブOBであり、碧南ヨットクラブ所属の様々な艇にクルーとして乗っていたが、最近は、久保良明がオーナーだった<シャンティー>のクルーとして活躍していたが、久保が退会したのを機に、<シャンティー>のオーナーとなり、碧南ヨットクラブ正会員の座を継承している。

第11回 J24全日本選手権大会結果(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

レーサー会員の活躍
杉田雄二<Southern Wind>の活躍

杉田雄二<Southern Wind>は、中学生の時にディンギーを自作しようとしたが途中で挫折、その後、24歳になってモス級ワールドに参加した選手から情報をもらい、自宅でモスを1か月で自作し、西浦の海に浮かべて帆走った。モス級と聞けばすぐに思い浮かべるのは、フォイルをつけて空中をかっ飛ぶ姿だが、杉田が作ったのは11ftのモスで、当時はまだフォイルがなかったという。当時はスコータイプとも言って上から見ると四角いハルが特徴で、かなり緩い縛りのものだったらしい。しかし、それでも14ftのシーホッパーより早かったという。その後、ヤマハの21R&Cの試作艇を入手し、自宅の庭でベニア合板のデッキをFRPに張り替え、1週間後、ヤマハ主催のレースに出場し、4位に入ったことでヨットレースにハマる。
こうなるとヨット抜きの人生は考えられないということで、杉田は26歳の時にヤマハ発動機に入社し、ヨットの製造部門に配属され、様々なヨットを市場に生み出していく。
ヤマハ発動機勤務時代、当時ヤマハ社員であり、その後ニッッポンチャレンジのナビゲーターから各国のACチャレンジャーのナビゲーターを経験して、現在、ノースセールジャパン代表取締役社長となった鹿取正信とも同乗した。また、ニッポンチャレンジの当時のヘルムスマンのピーター・ギルモワとはY33Sのヨッティング誌の取材時に同乗したこともあるという。
少し時代は遡るが、杉田の学生時代の昭和51年(1976年)に第17回鳥羽パールレースに杉田は<朝鳥>というヨットに乗艇し、出場している。この大会には石原慎太郎、裕次郎の兄弟も出場しており、慎太郎は<コンテッサ>で出場し、裕次郎はヱスビー食品の故山崎達光さんの艇<サンバード>で参加して、17時間という最速記録でファーストフィニッシュし、その記録は20年前後破られなかったという。(このころのフィニッシュは三浦半島小網代 シーボニア沖。)パールレース終了後、伊豆の稲取から伊豆7島の式根島に行き、途中で、波高が10Mほどの荒れた海面でブイの上部に立っている制服を着た自衛官と遭遇、自衛官がなぜブイの上に立っているのかと不審に思い近づいてみるとブイと思っていたのは潜水艦だったという。

杉田は、30歳で現在愛用しているÝ262Sの試作艇を購入し、その当時は、ニッポンチャレンジの元クルーも愛艇<Southern Wind>のクルーになっていたという。昭和60年(1985年)に碧南ヨットクラブに入会し、愛艇<Southern Wind>に様々な改良を加えながら、下記のようなレースの成績を上げている。
(成績は、一桁台のものだけをピックアップしています。)

平成6年(1994年) 第8回エリカカップ総合4位
平成7年(1995年) 第9回エリカカップ レーサークラス優勝、総合2位
平成8年(1996年) 第7回デニスコナーカップ CR-B-1クラス 準優勝
第10回エリカカップ レーサークラスA 3位
平成9年(1997年) 第11回エリカカップ レーサークラスA優勝 総合2位
ヤマハ サマーカップ ノービスクラス 準優勝
平成10年(1998年) ヤマハ スプリングカップレース レーサークラス優勝
平成11年(1999年) ヤマハ オープンカップ レーサークラス優勝
平成12年(2000年) 第14回エリカカップT.S.F.で6位、Mクラス優勝
平成13年(2001年) 第15回エリカカップ Kクラス優勝、総合で9位
第42回鳥羽パールレース クラス準優勝
このレースで杉田はヤマハ発動機の社員として、Y-30SN試作艇に乗り、俳優の木之元亮がヨットレースを体験するというテレビ番組を撮影するカメラマンを乗せながらレースに出場し、クラス準優勝の成績を収めている。
平成15年(2003年) 第17回エリカカップ Kクラス優勝、T.S.F.で7位
第14回デニスコナーカップ Dクラス準優勝
第34回東海フェスティバルレースT.S.Fで準優勝
平成16年(2004年) 第18回エリカカップ T.S.FクラスGで準優勝
平成17年(2005年) 第19回エリカカップ T.S.F.で6位
平成18年(2006年) 第20回エリカカップ ORCクラスFで7位
坂倉純二<Perfect Break>の活躍

坂倉純二は、若い頃からディンギーの活動をしていて顕著な成績も収めていたが、ある大会を機にディンギーに限界を感じ、クルーザーに切り替えようと思った。ちょうどその頃(昭和61年(1986年))、碧南ヨットクラブが、NORC東海支部が主催するフリート対抗レースに出場するということで、その噂を聞いた坂倉は、碧南ヨットクラブに入会した。これが坂倉純二の碧南ヨットクラブの会員の始まりである。当時の艇名は、<Perfect Break>ではなく、<クレージーホース>(ヨコヤマ31)であったが、邨瀬愛彦の<ホライゾンIII>、中根康雄の<AYA>、坂倉純二<クレージーホース>と合わせて3艇でフリート対抗レースに出場した。
その後、多くの優秀なクルーの参加もあって数々の成績を残すことになる。
平成2年(1990年)に艇種を(ネルソン/マレック31)に変更し、第4回エリカカップで2位、東海ミドルボート選手権で2位を獲得。
平成7年(1995年)に艇種を(ユーデル/フローリック32)に変更し、船名も現在の<Perfect Break>に変更した。
その後の<Perfect Break>の成績は、下記の通り。
注:平成7年から平成11年(1995年〜1999年)の期間の成績は、記録が残っていなくて古い記憶を頼りに記述しています。

平成7年〜平成11年(1995年〜1999年) 東海チャンピオンシップ3年連続総合2位この記録はまだ破られていない。
平成7年〜平成11年(1995年〜1999年) 衣浦合同レース年間総合優勝 3連覇いまだにこの記録は破られていない。
平成7年〜平成11年(1995年〜1999年) 有名なエリカカップだが記憶にあるのは最高4位。ほとんどシングルであるとのこと。
デニスコナーカップも一度準優勝している。
平成7年〜平成11年(1995年〜1999年) 坂倉が最も力を入れたレースは、関東ミドルボート選手権(年によっては全日本のカンムリ)。
記憶に残っている面白いレースは、第一上マーク、1分以内にポート、スターボード5艇が入り乱れて入り、坂倉はドライバー(ヘルムスマン)だったが、ぶつかるつもりで回航し、目をつぶって震えていたという。
毎年5月の連休に参加し、4回出場した。成績は、総合 10位 3位 7位 11位だったという。

ここから先の記録は、JSAF外洋東海のホームページに記録が残っているものです。(成績は、一桁台のものだけをピックアップしています。)

平成11年(1999年) 第24回五ヶ所湾合同レースIMSで準優勝
第24回東海チャンピオンシップIMS総合4位
平成12年(2000年) 第11回デニスコナーカップ IMSで5位
第14回エリカカップT.S.F.で9位
第25回東海チャンピオンシップIMSで9位
火山島レースに参加
平成13年(2001年) 第15回エリカカップ 総合で5位
SEED VにPerfect Breakのクルー5名とともに乗船し、第26回東海チャンピオンシップORC Clubで優勝
平成14年(2002年) 第2回東海スプリングレガッタ ORC Club で5位
第27回五ヶ所湾合同レース ORC Clubで4位
第27回東海チャンピオンシップシリーズ ORC Clubで6位
JSAF外洋東海年間総合成績 ORC Clubで4位
平成16年(2004年) 第18回エリカカップ ORC ClubクラスAで8位
令和4年(2022年) 第47回五ヶ所湾合同レース TRSで優勝
JSAF外洋東海年間総合成績 TRSで7位

坂倉は、沖縄-東海レースやパールレースなどのオフショアレースは、ワッチ交代時の船酔いが苦手であまり参加していなくて、もっぱらインショアレースを活動の場としてきた。<Perfect Break>も現在はFar36に変更し、碧南ヨットクラブでは、最もレーシング性能の良い艇でハンディも高く、クラブレース及びJSAF外洋東海主催のインショアレースを中心に楽しんでいる。長年、碧南ヨットクラブのレース委員長を勤め、現在は、他の人にレース委員長を任せてはいるが、レース委員長を補助しており、碧南ヨットクラブのレースの相談役でもあり、他クラブとの合同レースの調整などには欠かすことのできない存在となっている。

その他のレースでの会員の活躍

その他のレースにも様々な会員が参加し、活躍した。
(碧南セーリングクラブOB,OG)は、碧南ヨットクラブと同じ新川港に拠点を持つ碧南高校、碧南工業高校のヨット部の卒業生で、全員が山田克己の教え子である。

平成3年(1991年) <フローレス>が鳥羽パールレースで優勝した
平成4年(1992年) 水野範彦<フライング>が2回目の日本一周をし、途中、済州島→佐世保レースに参加、ウラジオストック、ナホトカにも寄港
平成8年(1996年) <テークワン>がハワイ ケンウッドレースに参加した
中根彰紀<フェルデフォン>がイタリア、サルディーニャ島で行われたJ24世界選手権大会に出場した。
この時、碧南ヨットクラブからは、永井浩行(碧南セーリングクラブOB)、樅山慶行<現シャンティークルー>(碧南セーリングクラブOB)、森 健二<現シャンティークルー>(碧南セーリングクラブOB)、小西正高(碧南セーリングクラブOB)、岡本二郎、近藤早苗、井上友子(碧南セーリングクラブOG)が乗艇し、参加している。
平成9年(1997年) 水野範彦<フライング>が火山島レース、ハウステンボスレースに参加した
平成10年(1998年) 水野範彦<フライング>が火山島レースに参加した
平成11年(1999年) 水野範彦<フライング>が火山島レースに参加した
中根彰紀<フェルデフォン>がイタリア、ジェノヴァで行われたJ24世界選手権大会に出場した。
(乗艇者など詳しい記録は残っていない)
平成13年(2001年) 渡邉起世<ボヘミアンIII>、芝 豊造<三河丸>、水野範彦<フライング>が宮崎ヨットレース、火山島レースに参加した
この時代の社会の出来事
昭和63年(1988年)  ニッポンチヤレンジアメリカ杯1991委員会が愛知県蒲郡市竹島埠頭にベースキャンプを設営
平成元年(1989年)  日経平均株価、最高値38,915円87銭をつける
平成2年(1990年)   10月1日に日経平均株価、20,000円を割る (バブル崩壊)
平成3年(1991年)   第1回湾岸戦争勃発
平成4年(1992年)    ニッポンチャレンジがアメリカズカップに初挑戦
平成7年(1995年)    Windows95 発売、  第2回目のニッポンチャレンジのアメリカズカップ挑戦

 

 

碧南ヨットクラブの近代化(平成10年 1998年 〜 平成20年 2008年)

本格的ヨットハーバーへの目覚め

ジェットポンツーンから櫛形ポンツーンへ

碧南ヨットクラブのハーバーが、ジェットポンツーンから民間マリーナのような本格的な板張りの櫛形ポンツーンへと変わるのは、Dポンツーンの老朽化がきっかけであった。
平成10年(1998年)木とタイヤとフロートで出来ているDポンツーンの老朽化が深刻になってきているのが泊地委員会で話題になり、当時会長であった水野範彦を中心に更新するための検討グループが立ち上がった。様々な検討を進めたが、結論としては、民間のマリーナにあるような板張りの櫛形ポンツーンを建設するのが良いということになった。しかし、様々な業者に見積もりをとってみると安いところで2,700万円、高いところでは3,700万円。当時のクラブの予算で賄える額ではなかった。そこでクラブの中から新しい櫛形ポンツーンに係留したい希望者を募って、希望者の出資により、この費用を賄うことにした。そのためクラブの中にDポンツーン管理協議会という組織が作られ、Dポンツーンの維持管理は碧南ヨットクラブとは独立して行うこととなった。そうなるとクラブの中に別組織を作り、予算も別管理にするとは何事だとの反対意見も出て、しかし、いいものができれば良いのではないか、という賛成意見もでる。賛否両論がひしめく中、最終的に水野範彦のリーダーシップにより、Dポンツーンの櫛形への更新は、ヨーロッパで実績のあるMETARU社の既製品をファーストマリン社に組み立てと設置を依頼し、平成11年(1999年)4月に完成し、係留を希望していた20艇が櫛形ポンツーンに係留することなった。

更新完了状況(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

枝ポンツーン設置状況(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

 

 

 

 

 

フロート設置状況(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

連結状況(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

 

 

 

 

 

こうなると周りはもう羨ましくてたまらない。
Cポンツーンの先端を利用している会員からCポンツーンも老朽化したので櫛形ポンツーンに変更したいとの意見が出て、平成14年(2002年)にこれを実現する。しかし、櫛形ポンツーンを欲しい会員が個人の費用でポンツーンを建設し、個人所有をするということがどんどん進めば、クラブとしての統制が効かなくなりクラブの運営に支障をきたす事になるとの懸念も出てきて、将来的には、クラブの管理で全てのポンツーンを櫛形化する方向に持っていこうとの意見も出てきた。
ポンツーンの近代化の動きと並行してクラブハウスの検討も進んだ。
平成6年(1994年)にヨットを係留している堤防の外側の海が港湾整備計画の一環として工業用地に埋め立てられることになった。工業用地になることで電気、水道などのインフラも利用できるようになる。今まで幅1メートルほどの細長い堤防だけしかなく、ヨットの整備や給油、荷物の積み込みにも大変な苦労があったが、土地ができるということは、さまざまなメリットが出てくる。この際、クラブハウスを作ろうではないかと話は盛り上がった。しかし、工業用地を借りるには費用もかかるし、さまざまな困難が予想される。そこで、船台をCポンツーンの根本に浮かべ、その上にプレハブの小屋を建ててクラブハウスとするのが良いのではないかと決まり、平成13年(2001年)当時泊地委員長だった古山哲<SEED V>は、木下造船から船台を調達し、その上にプレハブの小屋を建てた。小屋の前には、船台のデッキの大きなスペースができ、そこを様々なイベントやバーベキューなどに利用できるようになった。この時点で電気、水道が各艇から利用できるようハーバーのインフラの整備もなされた。
話をポンツーンに戻そう。ジェットポンツーンの老朽化がA,B,Cのポンツーンでも進み、いつかなんとかしなければならないという抜き差しならぬ状況になってきて、一方でこれまで進めてきたように会員各自がそれぞれ独自に費用を出して自前で枝ポンツーンを建築したのでは、クラブとしての統制が取れなくなる。これではまずいということで、平成18年(2006年)泊地委員長だった濱田武彦<ドリカム>は、A,B,Cポンツーン更新検討部会を立ち上げてクラブとしての統制のもとに全てのポンツーンを櫛形ポンツーンに更新する検討を始めた。

会員の活動

碧南ヨットファミリーの物語

高須洪吉が碧南ヨットクラブの発足のきっかけとなる<白雲>の新川港係留を始めたことから山田克己と出会い、碧南ヨットクラブの誕生につながったことは最初に述べた。山田克己には妹がいて、この妹が高須洪吉の妻になっている。
高須洪吉の長男である一誠は、ヨットを山田に指導してもらうため、碧南高校に越境入学した。その弟、次男の雅規も同じく山田の指導を受けるため碧南高校に越境入学している。高須兄弟の一誠と雅規からすれば、母親の兄、つまり叔父からヨットの指導を受けた事になる。
次男である高須雅規は、平成6年(1994年)高校2年の時、愛知県で行われた第49回国民体育大会「わかしゃち国体」のヨット部門で、少年男子FJ級の種目でオールトップという成績で優勝を獲得する。その後、高須雅規は邨瀬愛彦に才能をかわれ、チームベンガルの一員として数多くの国際外洋ヨットレースでクルーとして参加したり回航メンバーに入ったりといった活躍をすることになる。

平成12年(2000年) <ベンガルII>で沖縄レースの大阪コースでファーストホームで完全優勝した時、クルーとして参加。
平成13年(2001年) <ベンガルII>でトランスパックレースにクルーとして出場し、クラス3位入賞を果すが、この時、回航メンバーとしても活躍した。
平成15年(2003年) <ベンガルII>でトランスパックレースにクルーとして出場し、回航メンバーとしても活躍した。

さらに時が進んでシドニー・ホバートレースにも回航メンバー、クルーとして参加するなどチームベンガルの一員として安藤同様に活躍をする。

兄の高須一誠は、<AKEa>(オーナーは青山秋成)のスキッパーとなり、他の碧南セーリングクラブのOBたちと共にJSAF主催の様々なレースや碧南ヨットクラブ、あるいは衣浦港で活動する他のヨットクラブとの合同レースなどのクラブレースでも活動し、好成績を収めている。このチームでは、弟の雅規もクルーとして兄の活躍を助けている。
<AKEa>での高須一誠と雅規、ほか碧南セーリングクラブOBがJSAF主催のレースで挙げた成績は、以下の通り。

平成14年(2002年) 第13回デニスコナーカップT.S.F.で4位
平成15年(2003年) 第17回エリカカップ T.S.F.で5位
平成16年(2004年) 第15回デニスコナーカップT.S.F.で6位
第18回エリカカップ JSAF_CRで優勝
平成17年(2005年) 第19回エリカカップ T.S.F.で総合優勝
平成18年(2006年) 第17回デニスコナーカップT.S.F.クラスCで優勝、総合優勝
第20回エリカカップ T.S.F.で2位、ORCクラスCで優勝
平成19年(2007年) 第18回デニスコナーカップT.S.F.クラスBで優勝、総合6位
第21回エリカカップ TSF で優勝
平成20年(2008年) 第22回エリカカップ IRC で優勝
平成21年(2009年) 第20回デニスコナーカップ IRCで5位、8位
第23回エリカカップ IRC でクラス2位、総合7位
平成22年(2010年) 第21回デニスコナーカップ IRCで5位
平成23年(2011年) 第21回デニスコナーカップ IRCで4位
平成24年(2013年) 全日本ミドルボート選手権大会 Cクラスで準優勝
平成26年(2014年) ラグーナデニスコナーカップ2014 TRSで5位
平成27年(2015年) 第23回三河湾周遊レース TRSで5位
平成29年(2017年) ラグーナデニスコナーカップ2017 TRSで9位
第42回五ヶ所湾合同レース TRSで4位
平成30年(2018年) ラグーナデニスコナーカップ 2018 TRSで3位
第43回五ヶ所湾合同レース TRSで3位
令和元年(2019年) 第44回五ヶ所湾合同レース TRSで4位
JSAF外洋東海年間総合成績 TRSで6位
令和3年(2012年) 第29回三河湾周遊レース TRCで準優勝
令和4年(2022年) 第47回東海チャンピオンシップ TRSで優勝
第36回エリカカップ TRSで4位
第30回三河湾周遊レース TRSで準優勝
JSAF外洋東海年間総合成績 TRSで準優勝

山田克己には、息子、孫合わせて9名いるが、その9名ともヨット部に入り、セーラーとして活躍している。
高須洪吉には、高須健治という弟がいるが、健治もヨットマンで「トライデント」という船を持っており、衣浦ヨットクラブの会長を務めたこともある。
こんな家族、親戚なのでヨットに関連する話題は尽きない。
一誠が、1歳だった時、「白雲」で誕生日クルージングしたそうだが、なんとそのお祝いのクルージングで「白雲」はデスマスト(マストが折れること)したという。どんな祝い方したのだろうか?
一誠が小さい頃は、「白雲」で沖縄、大分県の姫島、三浦半島などいろいろなところに出掛けていたようだ。一誠の記憶に残っているのは、小学生の時に阿波踊りに「白雲」で連れて行ってもらい、ヨット連で踊った事を思い出すという。
「白雲」を平成の大改造後、3回目の阿波踊りクルージングに 高校ヨット部後輩と行った時のYouTubeがある。
阿波踊りクルージング

レーサー会員の活躍

碧南ヨットクラブには、古くからレース艇が数多く会員となり、様々なレースで活躍してきたが、2000年代に入ってもその動きは止まらない。

古山哲<SEED V>の活躍

古山哲オーナーの<SEED V>は、艇長を龍野信人が務めるが、オーナーは金だけ出して乗らないオーナーではなく、自らも一緒に乗艇し、舵も握るオーナーである。古山哲と龍野信人は、一緒に某大手ゼネコンに勤めている頃からの付き合いで、一緒にディンギーのシードに乗り始めたのがヨットとの出会いである。昭和63年(1988年)に二人は、碧南ヨットクラブに入会し、ディンギーからクルーザーに乗り換え、その後、様々なレースで活躍する。JSAFのレースで残した実績は下記のものがある。
(成績は、一桁台のものだけをピックアップしています。)

平成12年(2000年) 第41回鳥羽パールレース JSAF_CRクラスCで4位
平成13年(2001年) 第26回東海チャンピオンシップORC Clubで優勝
2001年度 JSAF外洋東海年間総合成績 ORC Clubで6位
平成14年(2002年) 第27回五ヶ所湾合同レース ORC Clubで優勝
第43回鳥羽パールレース ORC_Bで3位
2002年度 JSAF外洋東海年間総合成績  ORC Clubで8位
平成15年(2003年) 第17回エリカカップ ORC Clubで4位
平成16年(2004年) 第15回デニスコナーカップT.S.F.で8位
第29回五ヶ所湾合同レース ORC Club で4位
第29回東海チャンピオンシップ ORC Clubで準優勝
第18回エリカカップ ORC ClubクラスBで優勝、総合で準優勝
第45回なんせい鳥羽パールレース ORC_Cで8位
平成17年(2005年) 2005年第5回東海スプリングレガッタORC Clubで4位
第19回エリカカップ ORC Club クラスBで8位
第30回五ヶ所湾合同レース ORC Clubで9位
第46回なんせい鳥羽パールレース ORC_C で5位
2005年度 JSAF外洋東海年間成績 ORC Clubで8位
平成18年(2006年) 第14回三河湾周遊レース ORC Club で3位
第20回エリカカップ ORC ClubクラスBで4位、総合9位
第47回パールレース ORC Club クラスCで優勝、総合6位
平成19年(2007年) 第21回エリカカップ IRC で8位
第32回五ヶ所湾合同レース IRCで5位
第48回パールレース IRCクラブBで3位、IRC総合8位
平成20年(2008年) 第33回五ヶ所湾合同レース IRCで4位
平成29年(2017年) 第42回五ヶ所湾合同レース IRCで9位
令和3年(2021年) 第46回東海チャンピオンシップ IRC部門総合5位
第29回三河湾周遊レース IRCで5位
令和4年(2022年) 第30回三河湾周遊レース IRCで6位

 

この時代の社会の出来事
平成11年(1999年) 日本外洋帆走協会(NORC)と日本ヨット協会(JYA)が統合し、日本セーリング連盟(JSAF)となる
平成12年(2000年) 第3回ニッポンチャレンジのアメリカズカップ挑戦
平成13年(2001年) アメリカ同時多発テロにより、ニューヨークマンハッタンの世界貿易センタービルが破壊された、 ラグーナ蒲郡開業
平成14年(2002年)FIFAサッカーワールドカップ日韓共同開催
平成17年(2005年)愛知万博「愛・地球博」開催
平成20年(2008年)リーマンショックによる世界的な金融危機

碧南ヨットクラブの充実 (平成21年 2009年 〜 令和5年 2023年)

本格的ヨットハーバーの実現

クラブ管理の櫛形ポンツーンへの道程

平成18年(2006年)に始まったA ,B,Cポンツーン更新検討部会による全てのポンツーンを櫛形ポンツーンに更新する検討は、堀池哲生<IBIZA>が泊地委員長となり、平成21年(2009年)になってようやく実を結ぶ。第1期工事として、B、CポンツーンをジェットポンツーンからDポンツーンと同じヨーロッパで実績のあるMETARU社の板張りの既製品をメインのポンツーン(枝ではなく幹のポンツーン)としてクラブの費用で設置することし、枝ポンツーンは、希望するものが各自の費用で設置するということになった。数社から見積もりを取り、最も安価に購入できるファーストマリンから購入することにした。Aポンツーンは、この段階ではBポンツーンで使っていたジェットポンツーンの状態の良いものを合体させ、安定性を高めた。

第1期工事 B,CポンツーンをMETARU社製のポンツーンに更新(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

平成24年(2012年)には、残されていたAポンツーンのジェットポンツーンから板張りMETARU社のポンツーンへの更新が行われた。この時もクラブ費用でメインポンツーン(枝ではなく幹のポンツーン)を設置し、枝ポンツーンに関しては希望者が個人で費用を負担することして進めた。つまり、メインポンツーンはクラブ所有であるが、枝ポンツーンは個人所有という管理形態になった。枝ポンツーンは使用していた会員が退会しても返却されることはなく、クラブへ寄贈するというルールになった。新しく入会する会員が退会した会員が所有していた枝ポンツーンを利用したい場合、それ相応の金額をポンツーン利用費としてクラブに支払う。枝ポンツーンを使っていなかった会員が、枝ポンツーンを使用していた会員が退会する際にその枝ポンツーンを使いたい場合は、両者で交渉し、交渉により決まった金額で枝ポンツーンを譲り受けることができた。

第2期工事 AポンツーンのMETARU社製のポンツーンへの更新 (クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

令和に入って間もなく、コロナウイルスのパンデミックが世界中に蔓延し、碧南ヨットクラブもレースや他のイベントなどが次々と中止や自粛に追い込まれ、ヨットクラブとしての活動がままならなくなった。そんな中、気がついてみると思いもよらぬありがたいことが起こっていた。それは、2020年、2021年と相次いで忘年会やパーティなどのイベントを中止したことで予算が大幅に余り、資金の余裕が出てきたことだった。AポンツーンをMETARU社製の本格的なポンツーンに更新したとはいえ、A,Bポンツーンはまだまだ枝ポンツーンは少なく、入会の問い合わせは2020年ごろからディジタルマーケティングに積極的に取り組み始めたのをきっかけに増えてきてはいたが、入会希望者は、枝ポンツーンを利用したいという方がほとんどで、そうした入会希望者の要望に応えるには、殆どのポンツーンを櫛形に変更しなければならない。さらに2021年に新規に入会した会員の中には、46フィートを超える大型艇もあり、現状のハーバーの設備では安全に船を係留することもできず、枝ポンツーンの増設が必須であるとの思いを泊地委員会、総務委員会などで共有していた。そこで、理事会で10mの枝ポンツーンを5本、12mの枝ポンツーンを1本増設する計画を作り、これを進めようとした。理事会の中には、反対する理事もいたが、ハーバーを民間マリーナなみの設備にして会員を増やすには、予算に余裕がある今が千載一遇のチャンスであるとの思いを持つ理事も多く、それなら総会で全会員の総意を確認して進めようということになった。ただ、2022年の総会では、相変わらずコロナの猛威は鎮まっておらず、紙面での総会となり、会場で議論を交わすというようなことはできなかった。しかし、事前の説明に配慮し、予算の余剰状況や新規増設するポンツーンの費用など詳細に説明した資料を添付して会員全員に配布し、紙面での決議ではあったが、賛成多数で枝ポンツーンの増設をすることが決まった。
そして2022年9月22日、23日に費用を抑えるため工事はクラブ会員のボランティアにより行うことにし、業者のファストマリンは指導だけするという段取りで新ポンツーンの増設を進めた。そして6本の新ポンツーンの増設は、滞りなく完了した。

第3期工事 枝ポンツーンの増設(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)

この第3期工事をきっかけに今まで枝ポンツーンは全て個人所有としていた管理形態を辞めて、「全ての設備はクラブが所有し、会員はその利用権を所有する」という形態に変更した。
こうすることにより、今まで枝ポンツーンはそれを使用しているオーナーにより、劣化が進んでいたり破損があったり、管理がまちまちでケースによっては危険な状況にあるものさえいたのが、クラブ管理となり、修理が必要と泊地委員会が判断すれば、クラブの費用でそれを修理し、クラブ全体の設備の安全性を統一できるようになった。
新たに枝ポンツーンを利用する会員は、利用権費として25万円から55万円(ポンツーンの長さに応じて変わる)を支払い、利用権を得る。
枝ポンツーンを利用していた会員が退会する場合は利用権をクラブに返還する。個人間での枝ポンツーンの取引はしない。このようなルールに変更し、クラブの設備を充実させることができるようになった。これにより、碧南ヨットクラブは、民間マリーナ並みの整った設備の完成を見たことになる。
完成した碧南ヨットハーバーは、こちらをご覧ください。

会員の活動

クラブレースへの参加 (碧南ヨットクラブ単独レース & 衣浦合同レース)

レースに関しては、JSAF主催のレースなど公式戦で顕著な成績を収めてきた方を中心に紹介してきたが、もちろんそれ以外にもレースを楽しんでいる会員は多くいる。
碧南ヨットクラブでは、年に11回ほどのクラブレースを開催している。クラブレースは、野球で言うなら草野球、サッカーで言うなら草サッカーに相当し、バリバリのレーサーだけでなく、クルージング艇なども参加してレースを楽しもうという趣旨のものである。
年11回のうち、6回は衣浦合同レースと言って、碧南ヨットクラブだけではなく、衣浦港に拠点を置いて活動する他のヨットクラブ、亀崎ヨットクラブ、衣浦ヨットクラブ、冨貴ヨットクラブと合同で行うレースである。5回は、碧南ヨットクラブ単独で開催するレースです。
このクラブレースには、今までご紹介した杉田雄二<Souther Wind>、坂倉純二<Perfect Break>、高須一誠<AKEa>、古山哲<SEED V>といったバリバリのレース艇だけでなく、鳥居節郎<野武士>、堀池哲生<IBIZA>、上野政世<シャンティー>、伊藤敏宏<プリンシピア>、室田義隆<あいま>、鈴木洋<SAKURA>、高木廣行<MARUDIVES>、渡邉起世<ボヘミアンVI>、浅野正文<風童>、鳥羽富士夫<Zephyr>、広田重勝<HAYATO>、日比 清<AKI>、岡部賢司<メーヴェII>、鈴木一久<TSUBASA>、梛野徳光<風小僧>、近藤史人<Ada>、川口恭則<ATHENA>、赤堀竜二<バロネス>、栗田康正<萩VI>といったクルーザー艇やレース艇でも公式戦に出ない艇も数多く参加し、和気藹々とレースを楽しんでいる。

ブルーウォーター派のクルージング

レースだけでなく、クルージングでも古くから顕著な活動をしている会員がいる。世界一周を果たした高須洪吉<白雲>、渡邉起世<ボヘミアン>はすでにご紹介したが、その他の方をご紹介します。

川村暢夫<オリーブ>のエピソード

日本中のセーラーに名前を知られるようになる川村暢夫<オリーブ>は、平成3年(1991年)にトヨタの関連会社の役員を定年退職し、子供の頃A型ディンギーに乗っていた記憶を呼び覚まし、ヨットに乗りたいと碧南ヨットクラブに入会した。入会後クラブのメンバーに手ほどきを受け、いろいろな失敗を経験しながら独力で航海技術を身につけた。一方で大病にも罹り、それを克服してヨットに乗り続けた。彼の愛艇<オリーブ>のキャビンに入ると自分が倒れた時の応急処置の仕方を書いた紙がキャビンの柱に貼ってある。

そんな中、平成21年(2009年)日本一周のクルージングを果たすことになる。当時、83歳だった川村は、最高齢のシングルハンドセーラーとして日本中にその名を轟かせることとなった。
平成28年(2016年)90歳になった川村暢夫は、シングルハンドセーリングを続ける気満々であったが、流石に医師からドクターストップがかかり、一人でヨットに乗ってはいけません。と言われた。そこで川村は、大学(大阪大学工学部)の後輩であり、職場(トヨタ自動車)でも後輩であった川口恭則(現在は<Athena>のオーナー)にクルーになってくれと声をかけ、川口は、当時クルーとして登録していた<Ada>(近藤史人オーナー)を辞めて<オリーブ>のクルーとなった。<オリーブ>のクルーとなった明くる年の平成29年(2017年)川口は、川村に誘われて南紀勝浦から須佐美にクルージングに行った。すると<オリーブ>が来るという噂を聞きつけた地元のセーラーが一目お会いしたいと港に集まってくる。中には、手漕ぎボートで太平洋を横断したという人もいて川口はびっくりしたという。

こんな川村ではあったが、高齢者による車の事故が多発していたこともあり、娘さんから車の運転を止めるようにときつく言われ、平成30年(2018年)92歳にしてやむなくヨットを降りることになった。

 

浅野正文<風童>のエピソード

浅野正文<風童>は、日本一周を目指された方ですが、途中で中断することになりました。いろいろなご苦労をされて、ヨットマンにとっては有益な情報もあります。ご自身で原稿をお書きいただきましたので、それをそのまま掲載いたします。以下、浅野正文の原文です。

   風童 船と活動  浅野正文
私のヨット歴は、小学時代、岡山県玉野市に住んでいる時、近くの海水浴場で、高校、大学のヨット部の艇庫があり、よく練習をしていました。そのころから大きくなったらヨットをやりたいなと思っていました。

大学を卒業すると同時に琵琶湖の新しくできた志賀ヨットクラブに入会しました。毎週末、クラブで知り合ったヨット好きの仲間とディンギーに乗り、夜は志賀ヨットクラブで毎回飲んでました。すぐに共同でクルーザーを購入しました。最初はホランド30、2艇目が渡辺S31で、NORC参加し、頑張ってレースに出ていました。最終的にはNORC近畿北陸支部の年間総合優勝を取りました。ド素人集団がです。

40年前に名古屋に帰って、クリニックを開業、碧南ヨットクラブに入りました。バンデフェット30の初代風童を沼津から、現在のギブシー35を皆の協力を得て、東京夢の島マリーナから、回航しました。以来、クルージングを中心に楽しんでいます。琵琶湖からの仲間の尼崎の木田さん、京都の藤田さんも一緒に56年続けて5月のゴールデンウィークを中心に、八丈など伊豆七島に毎年行ってました。機帆走がほとんどです。5月は必ずと言っていいほど、3日に1回くらいメイストームが吹き荒れました。最大20m以上です。寒くて、真冬の服装が必要でした。横揺れも大きく、落艇対策として、ライフハーネスを用意、激しく荒れるときは、コクピットに直接排尿したこともありました。ドジャーがスプレー対策として必須でした。ジブはファーリングで、メインはリーフ幅を大きくした2ポイントリーフにしました。リーフの際もコクピットから出なくて済むよう、メインのリーチ側、ラフ側のリーフロープをコクピットに誘導しました。荒れたときはファーリングして小さくしたジブだけで走ったこともありました。通常は荒れた時も2ポイントしたメインだけで20m以上でも、裏風を入れながらでも走れました。機走だけはなく、セイルは必ず上げてました。南では串本あたりまでクルージングしました。エンジン関係のトラブルとして、串本に行く際、突然エンジンが止まりました。油水分離機に燃料がきてないことから、タンク内でのつまりと推測して、油水分離器のゴムパイプを思い切りタンク側に向かって吹き込み、突然つまりが取れ、エンジンが動くようになりました。そのクルージングから帰ってからタンクを洗浄しました。たくさんゴミがありました。それ以来、クルージング前にタンクの中を確認しています。また、伊豆からの帰りに荒れている時、エンジンの回転がおかしくなりました。油水分離器に水が溜まっており、タンクの中にも水が溜まっておりました。それが暴れて油水分離器にたまったと思われました。風童のハルの側面に開口している燃料タンクのエア抜きから、セイリング中ヒールしたときに海水が、雨水もか、タンクに入ったと思われました。新しいベネトーなどエアー抜きパイプはハルに開口する直前でループを作り、海水の流入を防いでいるようでした。現在風童のエア抜きは、ハルの直前で200ccくらいの容量のある簡単な油水分離器をつけ、出航の前に確認しています。燃料、海水が結構溜まっっていることがあります。以来そのようなトラブルはありません。

30年間働いた後、5年前に木田さんと二人で日本1周に出ました。10月に出航、オーバーナイトはせず、夜は港に停泊をしました。食事はなるべく自炊することしました。天候を見ながら安全に、南紀から紀伊水道から、小鳴門を通り、瀬戸内海、豊後水道から、鹿児島沖を通過、種子島、屋久島など吐噶喇列島、奄美諸島などところどころ寄りながら、11月末、沖縄本島南岸の与那原マリーナに停めました。そこで冬の間係留、3月末に船に戻り、上架、船底塗装して4月初めに出航。五島列島、対馬、壱岐から日本海側を北上しました。隠岐、佐渡島、新潟、山形、秋田、青森、最終地は函館でした。クルージング中、大きなトラブルはありませんしたが、越前三国で、プロペラシャフトとカップリングの連結が破損、エンジンが動いているのに、ペラは回っていない状態でした。保安庁が手配してくれた漁船に港まで曳航してもらいました。気持ちとして十分なお礼をしました。ヤンマーに修理してもらい、クルージングを続けました。しかし、徐々に、ヨット生活に飽きてきたこと、家族も心配していることから、不十分でしたが、日本一周を函館で取りやめました。ヨットを通じて素晴らしい仲間と会い、今も細々ですが、ヨットを楽しんでいます。

荒れる天候の際は出航を控える、途中で荒れてきたら早めに港に入れるようなクルージングの計画を立てるように、これからも心がけます。

 

神谷高登<ルミカ>のエピソード

神谷高登<ルミカ>が、2006年11月にハワイのオアフ島からHYCまで29日間(日付変更線を超えたので実質は30日)の談話です。
神谷は長年、ヨットでの太平洋航海に憧れていた。しかし紀伊半島を超えるようなロングは一度もしたことがなかった。三河湾から英虞湾付近までの近距離クルージングに終始していた。そこで経験を積もうと、沖縄への単独無寄港航海に挑戦した。しかしこの挑戦は、串本を南下した洋上で厳しい気象に阻まれ挫折して帰ってくることとなった。憔悴して母港へ帰還した神谷に、先輩セーラーからは「10年早い」となじられ、悔しい思いをする。しかし、今回の失敗は技量や経験不足によることは確かであった。だが神谷は太平洋航海を諦めることができなかった。

そんなある日、神谷にチャンスが巡ってきた。邨瀬愛彦(旧HYC所属)はトランスパックレース出場のため、ハワイ オアフ島のコオリナハーバーに停泊させていた<ベンガルII>に性能不足を感じるようになった。新しい艇に切り替え<ベンガルII>を日本に持ち帰って売却しようとしていた時だった。<ベンガルII>の日本までの回航には安藤康治が携わる。<ベンガルII>は50ftを超える船長、また長期の航海となるため安藤は同乗するクルーを必要としていた。神谷はこれに応募し、高須洪吉と3名でオアフ島から碧南まで回航することになった。4000マイルに及ぶ太平洋航海の夢が叶うこと。また経験豊富な先輩の航海術を学べると神谷は気合を入れて臨んだ。

オアフ島を出港し北緯20度あたりを西に向かう航路は快適だった。貿易風に乗って順調に<ベンガルII>は、航海を進めた。しかし、日本に向けて45度ほど北に変針すると次第に様相が違ってきた。突如荒れた高波が<ベンガルII>を二度襲った。荒れる海というのはこういうものか? と神谷は初めて経験するヘビーウェザーセーリングに度肝を冷やした。最初の波が発生した時の海は、普段より少し荒れた程度のものであった。いつものワッチシフト(3名で4時間おき)をしていて、高須と神谷の2名は船室で休息をしていた。その時、いきなり変則波が<ベンガルII>を襲った。船がドンッと横へ突き飛ばされるように持って行かれた。メインキャビンの右舷バースで眠っていた高須の上へ、左舷にあった食器や鍋・包丁、また予備の電池を入れた10kgほどの容器が飛んだ。高須はたまらず大声で叫んだ。なんとかこれをやり過ごし、日本に向けて<ベンガルII>は進んだ。すると今度は荒れた海でさらなる高波に襲われ、一発の波で船上に大量の海水が降ってきた。オールハンズで対処していたにも関わらず、船が反対方向へグルッと回ってしまった。波間から視界が開けたあとでも、この状況を理解するにはいくらかの時間を要した。これもクリアして<ベンガルII>は日本に向けて進んだ。安藤は手慣れたもので衣浦港に着いたらすぐに税関や検疫の手続きができるよう、八丈島を目視する海域で携帯電話にて各機関へ帰港する日程などの連絡を取った。しかしその後日本へ近づくほどに北西の向かい風が強くなり、航路を沖縄方向へ向けるか、関東方面に行くしか選択肢がなくなった。安藤は東に向けて進路を取った。そして<ベンガルII>は静岡の焼津港に到着した。到着はしたが、日本への入国は申請した場所(衣浦港)以外の港では審査を受けられないので、焼津港には入港・上陸もできなかった。港のすぐ前にアンカリングをして一日を過ごすことになった。神谷は夜にふと目を覚まし一人デッキでたたずんでいた。すると陸上に信号らしき明かりが見えた。しかしその信号はいつまで経っても赤色のままで変わらない。不思議に思い双眼鏡で見ると、それは信号ではなく居酒屋の赤提灯だった。ひと月ぶりに冷えたビールの飲める場所がすぐ近くにありながら、そこへ行けないことが本当に恨めしく思えた。

翌日、暗いうちに出航した<ベンガルII>は碧南ヨットクラブへ無事到着した。入国の手続きを終えたあと神谷たちは冷えた美味しいビールで乾杯をした。

宇都野重治<IBERIA>のエピソード

宇都野重治は、2000年に碧南ヨットクラブに入会した。鹿児島カップ火山めぐり外洋ヨットレースや三宅島などへ他艇のクルーとして参加する他は、三河湾、伊勢湾、三重県などを中心に愛艇<IBERIA>(ニューポート28)を駆ってクルージングを楽しむ日々を送っていた。

 平成28年(2016年)に縁あって、沖縄県宜野湾港マリーナに<IBERIAIII>(ハンター31)を置くことになった。それ以後、愛知県と沖縄県の2重のヨットライフを楽しむようになる。愛知県では相変わらず三河湾、伊勢湾、三重県へのクルージングだが、沖縄に拠点を置いたことにより、慶良間諸島を中心に珊瑚礁の美しい海をクルージングできるようになった。

 こんな2重のヨットライフを楽しむ日々を送っているある日、碧南ヨットクラブを一人の中国人青年が訪ねてくる。「いつかヨットで世界一周がしたいので、このクラブに入りたい。」という。ヨットを持っているのか問うと「持っていない」という。ヨットに乗った経験はあるのか問うと「乗ったことがない」と言う。まずは誰かの船にクルーとして乗せてもらって、ヨットの技術をマスターしてから自分の船を持った方が良いだろうとの周囲の助言により、誰かがこの中国人青年をクルーとして引き取ることになった。それが宇都野重治だった。これ以後、宇都野の愛知県でのヨットライフには中国青年が加わることになった。

宇都野にはもう一つ夢があった。それは海外で『いつかは外洋クルーズ』の夢であった。その夢を実現するチャンスが令和元年(2019年)6月に訪れた。世界を2周した経験を持つ知人がカナリア諸島へのクルージングをしないかと誘ってきた。千載一遇のチャンスであった。宇都野は参加を承諾し、飛行機で日本からスペインまで飛んだ。アルメリア港に乗船者が現地集合し、午前8時に出港し、マラガ、プエルト ベナルマデナ、ムエレ デ エスペデ、プエルト ソトグランテ、ジブラルタル(イギリス領)、セウタ(スペインの海外領土)、タンジェ(モロッコ)、カサブランカ(モロッコ)、モハンメディア(モロッコ)、ラバト(モロッコ) 、カナリア諸島、アレシーフェ マリーナ(ランサローテ)、プラヤ・デル カスティージョ(ベントウラ島) モロ バブル港(ベントウラ島)、ラス・パルマス(グランカナルア島)まで約1カ月間のクルージングを楽しんだ。
このクルージングの模様は、HYCニュースに記事が掲載されている。

鈴木一久<TSUBASA>のエピソード

鈴木一久<TSUBASA>は、シングルハンドで日本各地を旅するブルーウォーターセーラーである。これまでにクルーズしたところは、三宅島(5回)、九州一周(1回)、瀬戸内海(10回以上)、高知沖を通っての沖縄(1回)、この旅で鈴木は、シングルハンドでオーバーナイト・クルーズしている。帰り、日向灘沖で、夜中にペラにホンダワラが絡み、エンジンが使えなくなった。真っ暗な海に一人で潜って、ペラに絡んだホンダワラを外し、航海をつづけたという。
2023年4月29日、鈴木は、ついに日本一周のクルージングに出かけた。紀伊半島を周り、瀬戸内海を抜けて、関門海峡を通過し、日本海に出た。
角島、江崎、温泉津、大社などの日本海側の港を辿り、能登半島の輪島、舳倉島、粟島などを巡った。日本海側の港は、北前船の廻船航路の歴史があり、風情のある街を楽しんだという。秋田県の鯵ヶ沢を巡り、6月20日に津軽海峡を越えて超えて松前港にわたる。ここから北海道を江差、小樽、稚内など時計回りに周り、利尻島に渡り、絶品7,500円のバフンウニ丼を食べた。その後、宗谷岬を周り、枝幸港、網走港、知床岬の先にある文吉湾に入るとヒグマが出ることがあるそうで、入って写真を撮ってすぐに出たそうだ。シャチもクジラもアザラシにも出会うことはなかった。知床岬を回って羅臼港、根室に入る。根室港に入ると海上保安庁の職員や役所の職員が出てきて、ここはプレジャーボートの係留はできないので出て行けという。言われても出て行くことは出来ない。安全に関わることだ。いろいろごねていると緊急避難であれば、係留することはできるとのこと。緊急ということで係留させてもらった。鈴木にとって根室港は二度と行きたくない港になったようだ。他に北海道では、「出し風」に気をつけないといけないという。「出し風」とは山から谷のようにえぐれた地形が海に向かって続いている地形で、そこが風の通り道になって急に強風が吹いてくるという。さらに穏やかな風で安心していると岬を回った途端に強風に変わることもあるという。こんなことに注意しながら、鈴木は、北海道南岸をたどり、7月22日に函館の金森倉庫前に愛艇<TSUBASA>を槍付けした。函館でイカの刺身と日本酒を楽しみ、下北半島に渡る。岩手県のリアス式海岸の景観を楽しみながら南下し、東日本大震災の被害を受けた各地を経由し、塩釜まで来くると気温が暑くなり、イオンのショッピングセンターでハンディ扇風機を買った。房総半島先の千倉漁港まで来て、5号、6号、7号と立て続けの台風のため足止めを喰らった。足止めは、9泊10日に及んだ。さらに伊豆の大島から西伊豆の妻良港に向かう途中、爪木崎沖で黒潮の向かい潮にあい、1〜2ktしか速度が出なかった。妻良港から遠州灘を越えて、8月21日に無事碧南ヨットクラブに帰港した。

 

兵藤了基<オリオン>のエピソード

兵藤了基<オリオン>は、2002年に中古クルーザーを入手し、たちまちヨットの虜になった。蒲郡の三谷にある三谷ヨットクラブのハーバーを拠点にクルージングを楽しむ毎日を送っていたが、クルージングを続ける日々を送るうちにクルージング先で出会った碧南ヨットクラブの会員と交流し、その後、何度か碧南ヨットクラブを訪問するようになった。
そこで、碧南ヨットクラブのバリバリのブルーウォータ派である渡邉起世<ボヘミアン>、川村暢夫<オリーブ>、室田義隆<あいま>、浅野正文<風童>、竹田茂<チャージ>、高木廣行<モルディブ>たちとヨット談義を繰り返し、時には宴会にも招かれ、四方山話に花を咲かせているうちに、兵藤は、クルージング派の多くのベテランセーラーや2艇の世界周航艇、何艇もの日本周航艇の在籍、その他いずれも猛者揃いの碧南ヨットクラブの活動の活発さにすっかり心を奪われ、ついに碧南ヨットクラブに転籍してしまった。これは、平成26年(2014年)のことである。
転籍してすぐに兵藤は、屋久島へのクルージングを敢行する。兵藤のヨットライフについては、ブログに詳しく書かれているので、詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。長距離クルージングを目指す方には、参考になるたくさんの情報があるのでお勧めです。
その後、2015年には、沖縄へのクルージングを敢行し、2017年には、本州と北海道を一周するクルージングを実行した。そして2018年、兵藤は、小笠原諸島から北大東島、南大東島、与那原マリーナを経由し、台湾に行くため石垣島で出国手続きを行い出国した。しかし、台風に阻まれてやむなく断念した。

台湾への思いは燻り続け、翌年、2019年に台湾クルージングを敢行する。
2019年47日 碧南ヨットクラブを出航し、大王崎の波切港から紀伊勝浦へとクルーズし、勝浦の港に入るとシーズン初めにも関わらず、3艇のヨットが舫っている。近ついてみるとそのうちの1艇は、碧南ヨットクラブの会員で、いつもご夫婦でロングクルージングをされている長江真人<ビーグル>であった。他の2艇も知り合いである。偶然の再会を喜び、しばし歓談。その後、串本を経由し、周参見に行くとここでも長江真人<ビーグル>と再会した。長江真人と兵藤は、入会前から各泊地で何度となく会っており、長江からは直接的に「碧南のブルーウォーター色」を強く印象付けられ、影響を受けたと兵藤は語っている。その後、田辺など紀伊半島西岸を巡り、徳島の日和佐港、室津港、高知ヨットクラブ、土佐佐賀港などと四国の南岸を辿り、宮崎(門川港、油津港)から種子島(西之表港)へ、屋久島(宮之浦港)、トカラ列島(口之島)、トカラ列島(悪石島)、奄美大島(名瀬港)、沖永良部島(和泊港)などを経由して、5月4日に与論島に到着。レンタカーで百合ヶ浜へ行き、ウミガメを見物、その後、与論島銀座通りのお祭りで屋台を楽しむ。翌日の5月5日、出航し、名護漁港を経由して、56日に宜野湾マリーナに到着した。
ここで、兵藤は、碧南ヨットクラブの正会員ではあるが、宜野湾マリーナにもヨットを定期係留している宇都野重治<IBERIA>と再会、さらにこれまでの航海で知り合った数多くのセーラーとの再会を果たす。兵藤は、宜野湾マリーナに6日間滞在し、滞在中は運動不足を解消するためウォーキングで観光地を探訪したり、買い物したり、コインランドリーへ行ったりして時間を過ごす。
5月12日に宜野湾マリーナを出航し、宮古島を経由し、5月15日に石垣島に到着。ここで出国手続きを行う。台湾への入国手続きは、前回、うまく手続きができなかったことをブログに書き、それをみていた台湾在住のセーラーが手伝ってくれることになった。その台湾在住のセーラーと17日午後には到着できるとメールで連絡を取り合う。5月16日 3:00に石垣島を出航。台湾 新北市 淡水に進路をとる。係留場所などはすべて台湾在住のセーラーが手配してくれている。雷の伴う激しい雨の中、台湾に向けて船を進めると明るくなった頃に台湾の沿岸にたどり着く。連れ潮に乗って沿岸を進み、淡水マリーナに到着。コーストガード庁舎前に立っていた職員の指示に従い、12:00少し前に保安署の前の岸壁に着岸。台湾在住のセーラーも駆けつけ、マリーナに船を移動。ここで入国審査が済むまで待機。いろいろすったもんだの末、入国審査と検疫が完了。ホテルでようやく安眠。
5月18日からクルーと二人で列車での台湾一周の旅に出る。台湾は日本語が話せる方が多く、楽しい旅行となったようですが、ここは、普通の観光旅行なので、詳しく知りたい方は、ブログをご覧ください。
5月24日淡水マリーナに戻った。台湾在住のセーラーが、翌、25日に出国の手続きをしてくれていたが、25日は悪天候の予報。出国日を26日に変更し、26日5:00に出航、石垣島を目指し、25ktの向かい風の中船を走らせ、31時間30分後の27日13:30に石垣島石垣港に到着。税関、検疫などの入国手続きを済ませ、石垣島のホテルのベッドに横になった。石垣島で連泊し、29日に出航。宜野湾マリーナに行く予定だったが、逆潮のため速度が出せず、途中宮古島に立ち寄り、宜野湾マリーナには6月2日に到着。しばらく宜野湾マリーナに滞在し、6月16日宜野湾マリーナを出航。屋久島一湊漁港、枕崎港、下甑島、天草、ハウステンボス、平戸、呼子、博多漁港を経由し、そのまま瀬戸内海に進むのではなく、日本海側の萩、中小畑港、島根県 温泉津、出雲の大社港、境港、隠岐島、あたりを巡った後、福岡県岩屋漁港に戻り、その後、関門海峡を通り、姫島へ。別府へ立ち寄り、山口県上関室津港へとたどり、瀬戸内海各所を巡って、10月9日にようやく碧南ヨットクラブのある新川港に帰港した。
その後も兵藤は、北海道一周や八丈島など日本各地をクルージングして巡っている。夢は、いつか、フィリピンへ、さらにその先へと巡り続けている。

その他のブルーウォータセーラー

長距離クルージングをした一部の会員の業績を紹介しましたが、これは2023年時点でインタビュー可能なほんの一部の会員の活動であり、他にも長距離クルージングをされた方は数多くいます。残念ながらすでにクラブを退会していますが、長江真人<ビーグル>、小粥昭六<タートル>など私が入会した時に活動されていた方や、ずっと前に退会された方も数多くおられるということを最後に申し添えておきます。

この時代の社会の出来事
平成23年(2011年)  東日本大震災発生、サッカー女子日本代表(なでしこジャパン)W杯優勝
平成24年(2012年)  山中伸弥京都大学教授、ノーベル生理学・医学賞受賞
平成26年(2014年)  御嶽山噴火、57名が死亡、6名不明
平成27年(2015年)  ラグビーW杯 イングランド大会で日本代表がラグビー強国南アフリカを破る
平成28年(2016年)  アメリカ大統領選挙でトランプ氏が勝利
令和元年(2019年)   香港で学生らが大規模デモ
令和2年(2020年)   新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、パンデミックを引き起こす
令和4年(2022年)   ロシアによるウクライナ軍事侵攻が始まる

 

 

 

編集後記

大抵のヨットクラブにはクラブの沿革が載っているのに碧南ヨットクラブにはそれがなかった。2022年の終わり頃だったか、2024年に碧南ヨットクラブの創立50周年を迎えるので、これを機会にクラブの沿革を編集したいと広報委員長であった私が理事会で提案したところ賛同を得たので編集することにした。

当初、古参会員の方々にメールで質問する形で創立当初のことをお聞きしていたが、全く返事が来ない。ある方とお話ししたところ、クラブハウスに集まって、いっぱい飲みながら話し出せば昔のこと思い出して色々聞けるよ。ということだったので古参会員の方々に2023年1月21日(土)にクラブハウスにお集まりいただき、鍋を突きながら昔話をお聞きした。1月21日のミーティングには、さまざまな資料をいただき、特に山田克己さんからは段ボール箱いっぱいの資料を戴いた。資料に目を通すと1988年に「針の岩」登頂という一大事業があり、これが碧南ヨットクラブの発展を語る上で欠かすことのできない重要な出来事であったことが分かった。しかし「針の岩」登頂を書こうとするとそれだけで十分な量の書き物になってしまう。そこで「針の岩」登頂は別記事としてギャラリーに掲載することにした。

こうして「針の岩」登頂と碧南ヨットクラブの沿革という2つの書き物を同時に書き進めることになった。「針の岩」登頂は、資料が揃っているので割と早い段階でまとまった。碧南ヨットクラブの沿革は、聞き出せば聞き出すほど次から次へと面白い話が出てくる。方針としては、ポンツーンやクラブハウスなどの設備面だけではなく、人物に焦点を当てて、その人がどんな活動をしてきたか、どんな思いで活動してきたかを記載するようにしようと決めた。レースで顕著な成績をおさめてきた方の話題がどうしても多くなってしまうが、ブルーウォータ派の方々も顕著な活動をされている方は多いので、時代の新しいところに記述することにした。

設備面では、本格的な櫛形のポンツーンが完成したのは、ごく最近のことだが、沿革を編集してみて思ったのは、クラブの創立以来、この姿になるように延々と時間をかけてこのクラブは発展してきたのだと思いました。第3期工事の枝ポンツーン増設にあたっては、理事会の中でも意見が分かれた。多額な費用を使うことに対する抵抗が反対意見だった。

私が入会した2015年ごろ、クラブの長老の方々から聞いた話だが、このクラブは老人ばかりになってきており、後が続かない。早晩、クラブを閉鎖してクラブの占用水域を県に返さなければならない。その時は更地にして返す必要がある。だからそのための金を残しておかなければならない。

今の若者はヨットに興味を持つ人は少ないと周りの人は皆そう思っていた。本当にそうだろうか?バブル期のように富の象徴としてヨットに憧れる人はいなくなったかもしれない。しかし、海の上を風だけで進む爽快感を若者が感じないとは思えない。実際、私の船には若者が何人も来たが、皆、風だけで海の上を走る爽快感に興奮していた。老人だけしかいないと嘆く前に若者たちにアピールして取り込む機会をなぜ作ろうとしないのか?それが私の正直な気持ちだった。

石原慎太郎や加山雄三のような特別な金持ちでなければヨットは持てない。これが世間一般の常識的観念かと思います。碧南ヨットクラブにくれば、普通のサラリーマンでもヨットを持つことができます。こうしたことをアピールすればもっと会員は増えるはずだと思いました。

反対派の方たちは、これ以上若い人たちが入会することはないだろう。クラブを閉鎖するときに更地にしなければならない。その為にはお金は使わないで残しておかなければ、という思いが強かったのではないか。賛成派の人たちは、設備をよくしてクラブの魅力を大きくし、それを世間にアピールすれば、若い人たちも必ず入ってくる。そうすれば、このクラブは永遠に続けることができる。そんな考えで進めようとしていたのではないかと私は思っています。

結果は、賛成派の人たちの望む方向に進んだ。この結果が吉と出るか凶と出るかは、今後の我々の努力次第だと思っています。ともかく、このクラブが永遠に続き、多くの若者たちがヨットに興味を持ち、風だけで海の上を進む爽快感を末長く楽しめるように、その方向に碧南ヨットクラブは舵を切ったと思っています。

この沿革を編集するにあたり、碧南ヨットクラブ沿革編纂会議というグループを作り、会長の石川さんはじめ、古参会員の堀池さん、鳥居さん、安藤さん、高須洪吉さんの代わりにご長男の一誠さん、総務委員長の梛野さんにお集まりいただき、さまざまなご記憶を掘り起こしていただき、資料も数多くお預かりして編集を進めました。沿革の年代が最近になると編纂会議のメンバー以外の方からもたくさんのご意見や情報を頂き、なんとか編纂を進めることができました。

ご協力とご支援をいただいた方々にこの場をお借りして心より感謝申し上げます。編集の至らないところ、抜けや漏れのあるところも多々あるかと思いますが、幸いしにてこの原稿は、紙ではないので容易に修正することができます。皆様から不備をご指摘いただいたならば、修正を繰り返して、より完全なものにしていきたいと思っております。

碧南ヨットクラブが、末長く多くの方に喜ばれる自主管理・自主運営のヨットクラブとして発展していくことを願っています。

文責 碧南ヨットクラブ沿革編纂会議 近藤史人