本格的ヨットハーバーの実現
クラブ管理の櫛形ポンツーンへの道程
平成18年(2006年)に始まったA ,B,Cポンツーン更新検討部会による全てのポンツーンを櫛形ポンツーンに更新する検討は、堀池哲生<IBIZA>が泊地委員長となり、平成21年(2009年)になってようやく実を結ぶ。第1期工事として、B、CポンツーンをジェットポンツーンからDポンツーンと同じヨーロッパで実績のあるMETARU社の板張りの既製品をメインのポンツーン(枝ではなく幹のポンツーン)としてクラブの費用で設置することし、枝ポンツーンは、希望するものが各自の費用で設置するということになった。数社から見積もりを取り、最も安価に購入できるファーストマリンから購入することにした。Aポンツーンは、この段階ではBポンツーンで使っていたジェットポンツーンの状態の良いものを合体させ、安定性を高めた。
第1期工事 B,CポンツーンをMETARU社製のポンツーンに更新(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)
平成24年(2012年)には、残されていたAポンツーンのジェットポンツーンから板張りMETARU社のポンツーンへの更新が行われた。この時もクラブ費用でメインポンツーン(枝ではなく幹のポンツーン)を設置し、枝ポンツーンに関しては希望者が個人で費用を負担することして進めた。つまり、メインポンツーンはクラブ所有であるが、枝ポンツーンは個人所有という管理形態になった。枝ポンツーンは使用していた会員が退会しても返却されることはなく、クラブへ寄贈するというルールになった。新しく入会する会員が退会した会員が所有していた枝ポンツーンを利用したい場合、それ相応の金額をポンツーン利用費としてクラブに支払う。枝ポンツーンを使っていなかった会員が、枝ポンツーンを使用していた会員が退会する際にその枝ポンツーンを使いたい場合は、両者で交渉し、交渉により決まった金額で枝ポンツーンを譲り受けることができた。
第2期工事 AポンツーンのMETARU社製のポンツーンへの更新 (クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)
令和に入って間もなく、コロナウイルスのパンデミックが世界中に蔓延し、碧南ヨットクラブもレースや他のイベントなどが次々と中止や自粛に追い込まれ、ヨットクラブとしての活動がままならなくなった。そんな中、気がついてみると思いもよらぬありがたいことが起こっていた。それは、2020年、2021年と相次いで忘年会やパーティなどのイベントを中止したことで予算が大幅に余り、資金の余裕が出てきたことだった。AポンツーンをMETARU社製の本格的なポンツーンに更新したとはいえ、A,Bポンツーンはまだまだ枝ポンツーンは少なく、入会の問い合わせは2020年ごろからディジタルマーケティングに積極的に取り組み始めたのをきっかけに増えてきてはいたが、入会希望者は、枝ポンツーンを利用したいという方がほとんどで、そうした入会希望者の要望に応えるには、殆どのポンツーンを櫛形に変更しなければならない。さらに2021年に新規に入会した会員の中には、46フィートを超える大型艇もあり、現状のハーバーの設備では安全に船を係留することもできず、枝ポンツーンの増設が必須であるとの思いを泊地委員会、総務委員会などで共有していた。そこで、理事会で10mの枝ポンツーンを5本、12mの枝ポンツーンを1本増設する計画を作り、これを進めようとした。理事会の中には、反対する理事もいたが、ハーバーを民間マリーナなみの設備にして会員を増やすには、予算に余裕がある今が千載一遇のチャンスであるとの思いを持つ理事も多く、それなら総会で全会員の総意を確認して進めようということになった。ただ、2022年の総会では、相変わらずコロナの猛威は鎮まっておらず、紙面での総会となり、会場で議論を交わすというようなことはできなかった。しかし、事前の説明に配慮し、予算の余剰状況や新規増設するポンツーンの費用など詳細に説明した資料を添付して会員全員に配布し、紙面での決議ではあったが、賛成多数で枝ポンツーンの増設をすることが決まった。
そして2022年9月22日、23日に費用を抑えるため工事はクラブ会員のボランティアにより行うことにし、業者のファストマリンは指導だけするという段取りで新ポンツーンの増設を進めた。そして6本の新ポンツーンの増設は、滞りなく完了した。
第3期工事 枝ポンツーンの増設(クリックすると画像を鮮明に見ることができます。)
この第3期工事をきっかけに今まで枝ポンツーンは全て個人所有としていた管理形態を辞めて、「全ての設備はクラブが所有し、会員はその利用権を所有する」という形態に変更した。
こうすることにより、今まで枝ポンツーンはそれを使用しているオーナーにより、劣化が進んでいたり破損があったり、管理がまちまちでケースによっては危険な状況にあるものさえいたのが、クラブ管理となり、修理が必要と泊地委員会が判断すれば、クラブの費用でそれを修理し、クラブ全体の設備の安全性を統一できるようになった。
新たに枝ポンツーンを利用する会員は、利用権費として25万円から55万円(ポンツーンの長さに応じて変わる)を支払い、利用権を得る。
枝ポンツーンを利用していた会員が退会する場合は利用権をクラブに返還する。個人間での枝ポンツーンの取引はしない。このようなルールに変更し、クラブの設備を充実させることができるようになった。これにより、碧南ヨットクラブは、民間マリーナ並みの整った設備の完成を見たことになる。
完成した碧南ヨットハーバーは、こちらをご覧ください。
会員の活動
クラブレースへの参加 (碧南ヨットクラブ単独レース & 衣浦合同レース)
レースに関しては、JSAF主催のレースなど公式戦で顕著な成績を収めてきた方を中心に紹介してきたが、もちろんそれ以外にもレースを楽しんでいる会員は多くいる。
碧南ヨットクラブでは、年に11回ほどのクラブレースを開催している。クラブレースは、野球で言うなら草野球、サッカーで言うなら草サッカーに相当し、バリバリのレーサーだけでなく、クルージング艇なども参加してレースを楽しもうという趣旨のものである。
年11回のうち、6回は衣浦合同レースと言って、碧南ヨットクラブだけではなく、衣浦港に拠点を置いて活動する他のヨットクラブ、亀崎ヨットクラブ、衣浦ヨットクラブ、冨貴ヨットクラブと合同で行うレースである。5回は、碧南ヨットクラブ単独で開催するレースです。
このクラブレースには、今までご紹介した杉田雄二<Souther Wind>、坂倉純二<Perfect Break>、高須一誠<AKEa>、古山哲<SEED V>といったバリバリのレース艇だけでなく、鳥居節郎<野武士>、堀池哲生<IBIZA>、上野政世<シャンティー>、伊藤敏宏<プリンシピア>、室田義隆<あいま>、鈴木洋<SAKURA>、高木廣行<MARUDIVES>、渡邉起世<ボヘミアンVI>、浅野正文<風童>、鳥羽富士夫<Zephyr>、広田重勝<HAYATO>、日比 清<AKI>、岡部賢司<メーヴェII>、鈴木一久<TSUBASA>、梛野徳光<風小僧>、近藤史人<Ada>、川口恭則<ATHENA>、赤堀竜二<バロネス>、栗田康正<萩VI>といったクルーザー艇やレース艇でも公式戦に出ない艇も数多く参加し、和気藹々とレースを楽しんでいる。
ブルーウォーター派のクルージング
レースだけでなく、クルージングでも古くから顕著な活動をしている会員がいる。世界一周を果たした高須洪吉<白雲>、渡邉起世<ボヘミアン>はすでにご紹介したが、その他の方をご紹介します。
川村暢夫<オリーブ>のエピソード
日本中のセーラーに名前を知られるようになる川村暢夫<オリーブ>は、平成3年(1991年)にトヨタの関連会社の役員を定年退職し、子供の頃A型ディンギーに乗っていた記憶を呼び覚まし、ヨットに乗りたいと碧南ヨットクラブに入会した。入会後クラブのメンバーに手ほどきを受け、いろいろな失敗を経験しながら独力で航海技術を身につけた。一方で大病にも罹り、それを克服してヨットに乗り続けた。彼の愛艇<オリーブ>のキャビンに入ると自分が倒れた時の応急処置の仕方を書いた紙がキャビンの柱に貼ってある。
そんな中、平成21年(2009年)日本一周のクルージングを果たすことになる。当時、83歳だった川村は、最高齢のシングルハンドセーラーとして日本中にその名を轟かせることとなった。
平成28年(2016年)90歳になった川村暢夫は、シングルハンドセーリングを続ける気満々であったが、流石に医師からドクターストップがかかり、一人でヨットに乗ってはいけません。と言われた。そこで川村は、大学(大阪大学工学部)の後輩であり、職場(トヨタ自動車)でも後輩であった川口恭則(現在は<Athena>のオーナー)にクルーになってくれと声をかけ、川口は、当時クルーとして登録していた<Ada>(近藤史人オーナー)を辞めて<オリーブ>のクルーとなった。<オリーブ>のクルーとなった明くる年の平成29年(2017年)川口は、川村に誘われて南紀勝浦から須佐美にクルージングに行った。すると<オリーブ>が来るという噂を聞きつけた地元のセーラーが一目お会いしたいと港に集まってくる。中には、手漕ぎボートで太平洋を横断したという人もいて川口はびっくりしたという。
こんな川村ではあったが、高齢者による車の事故が多発していたこともあり、娘さんから車の運転を止めるようにときつく言われ、平成30年(2018年)92歳にしてやむなくヨットを降りることになった。
浅野正文<風童>のエピソード
浅野正文<風童>は、日本一周を目指された方ですが、途中で中断することになりました。いろいろなご苦労をされて、ヨットマンにとっては有益な情報もあります。ご自身で原稿をお書きいただきましたので、それをそのまま掲載いたします。以下、浅野正文の原文です。
風童 船と活動 浅野正文
私のヨット歴は、小学時代、岡山県玉野市に住んでいる時、近くの海水浴場で、高校、大学のヨット部の艇庫があり、よく練習をしていました。そのころから大きくなったらヨットをやりたいなと思っていました。
大学を卒業すると同時に琵琶湖の新しくできた志賀ヨットクラブに入会しました。毎週末、クラブで知り合ったヨット好きの仲間とディンギーに乗り、夜は志賀ヨットクラブで毎回飲んでました。すぐに共同でクルーザーを購入しました。最初はホランド30、2艇目が渡辺S31で、NORC参加し、頑張ってレースに出ていました。最終的にはNORC近畿北陸支部の年間総合優勝を取りました。ド素人集団がです。
約40年前に名古屋に帰って、クリニックを開業、碧南ヨットクラブに入りました。バンデフェット30の初代風童を沼津から、現在のギブシー35を皆の協力を得て、東京夢の島マリーナから、回航しました。以来、クルージングを中心に楽しんでいます。琵琶湖からの仲間の尼崎の木田さん、京都の藤田さんも一緒に5~6年続けて5月のゴールデンウィークを中心に、八丈など伊豆七島に毎年行ってました。機帆走がほとんどです。5月は必ずと言っていいほど、3日に1回くらいメイストームが吹き荒れました。最大20m以上です。寒くて、真冬の服装が必要でした。横揺れも大きく、落艇対策として、ライフハーネスを用意、激しく荒れるときは、コクピットに直接排尿したこともありました。ドジャーがスプレー対策として必須でした。ジブはファーリングで、メインはリーフ幅を大きくした2ポイントリーフにしました。リーフの際もコクピットから出なくて済むよう、メインのリーチ側、ラフ側のリーフロープをコクピットに誘導しました。荒れたときはファーリングして小さくしたジブだけで走ったこともありました。通常は荒れた時も2ポイントしたメインだけで20m以上でも、裏風を入れながらでも走れました。機走だけはなく、セイルは必ず上げてました。南では串本あたりまでクルージングしました。エンジン関係のトラブルとして、串本に行く際、突然エンジンが止まりました。油水分離機に燃料がきてないことから、タンク内でのつまりと推測して、油水分離器のゴムパイプを思い切りタンク側に向かって吹き込み、突然つまりが取れ、エンジンが動くようになりました。そのクルージングから帰ってからタンクを洗浄しました。たくさんゴミがありました。それ以来、クルージング前にタンクの中を確認しています。また、伊豆からの帰りに荒れている時、エンジンの回転がおかしくなりました。油水分離器に水が溜まっており、タンクの中にも水が溜まっておりました。それが暴れて油水分離器にたまったと思われました。風童のハルの側面に開口している燃料タンクのエア抜きから、セイリング中ヒールしたときに海水が、雨水もか、タンクに入ったと思われました。新しいベネトーなどエアー抜きパイプはハルに開口する直前でループを作り、海水の流入を防いでいるようでした。現在風童のエア抜きは、ハルの直前で200ccくらいの容量のある簡単な油水分離器をつけ、出航の前に確認しています。燃料、海水が結構溜まっっていることがあります。以来そのようなトラブルはありません。
30年間働いた後、5年前に木田さんと二人で日本1周に出ました。10月に出航、オーバーナイトはせず、夜は港に停泊をしました。食事はなるべく自炊することしました。天候を見ながら安全に、南紀から紀伊水道から、小鳴門を通り、瀬戸内海、豊後水道から、鹿児島沖を通過、種子島、屋久島など吐噶喇列島、奄美諸島などところどころ寄りながら、11月末、沖縄本島南岸の与那原マリーナに停めました。そこで冬の間係留、3月末に船に戻り、上架、船底塗装して4月初めに出航。五島列島、対馬、壱岐から日本海側を北上しました。隠岐、佐渡島、新潟、山形、秋田、青森、最終地は函館でした。クルージング中、大きなトラブルはありませんしたが、越前三国で、プロペラシャフトとカップリングの連結が破損、エンジンが動いているのに、ペラは回っていない状態でした。保安庁が手配してくれた漁船に港まで曳航してもらいました。気持ちとして十分なお礼をしました。ヤンマーに修理してもらい、クルージングを続けました。しかし、徐々に、ヨット生活に飽きてきたこと、家族も心配していることから、不十分でしたが、日本一周を函館で取りやめました。ヨットを通じて素晴らしい仲間と会い、今も細々ですが、ヨットを楽しんでいます。
荒れる天候の際は出航を控える、途中で荒れてきたら早めに港に入れるようなクルージングの計画を立てるように、これからも心がけます。
神谷高登<ルミカ>のエピソード
神谷高登<ルミカ>が、2006年11月にハワイのオアフ島からHYCまで29日間(日付変更線を超えたので実質は30日)の談話です。
神谷は長年、ヨットでの太平洋航海に憧れていた。しかし紀伊半島を超えるようなロングは一度もしたことがなかった。三河湾から英虞湾付近までの近距離クルージングに終始していた。そこで経験を積もうと、沖縄への単独無寄港航海に挑戦した。しかしこの挑戦は、串本を南下した洋上で厳しい気象に阻まれ挫折して帰ってくることとなった。憔悴して母港へ帰還した神谷に、先輩セーラーからは「10年早い」となじられ、悔しい思いをする。しかし、今回の失敗は技量や経験不足によることは確かであった。だが神谷は太平洋航海を諦めることができなかった。
そんなある日、神谷にチャンスが巡ってきた。邨瀬愛彦(旧HYC所属)はトランスパックレース出場のため、ハワイ オアフ島のコオリナハーバーに停泊させていた<ベンガルII>に性能不足を感じるようになった。新しい艇に切り替え<ベンガルII>を日本に持ち帰って売却しようとしていた時だった。<ベンガルII>の日本までの回航には安藤康治が携わる。<ベンガルII>は50ftを超える船長、また長期の航海となるため安藤は同乗するクルーを必要としていた。神谷はこれに応募し、高須洪吉と3名でオアフ島から碧南まで回航することになった。4000マイルに及ぶ太平洋航海の夢が叶うこと。また経験豊富な先輩の航海術を学べると神谷は気合を入れて臨んだ。
オアフ島を出港し北緯20度あたりを西に向かう航路は快適だった。貿易風に乗って順調に<ベンガルII>は、航海を進めた。しかし、日本に向けて45度ほど北に変針すると次第に様相が違ってきた。突如荒れた高波が<ベンガルII>を二度襲った。荒れる海というのはこういうものか? と神谷は初めて経験するヘビーウェザーセーリングに度肝を冷やした。最初の波が発生した時の海は、普段より少し荒れた程度のものであった。いつものワッチシフト(3名で4時間おき)をしていて、高須と神谷の2名は船室で休息をしていた。その時、いきなり変則波が<ベンガルII>を襲った。船がドンッと横へ突き飛ばされるように持って行かれた。メインキャビンの右舷バースで眠っていた高須の上へ、左舷にあった食器や鍋・包丁、また予備の電池を入れた10kgほどの容器が飛んだ。高須はたまらず大声で叫んだ。なんとかこれをやり過ごし、日本に向けて<ベンガルII>は進んだ。すると今度は荒れた海でさらなる高波に襲われ、一発の波で船上に大量の海水が降ってきた。オールハンズで対処していたにも関わらず、船が反対方向へグルッと回ってしまった。波間から視界が開けたあとでも、この状況を理解するにはいくらかの時間を要した。これもクリアして<ベンガルII>は日本に向けて進んだ。安藤は手慣れたもので衣浦港に着いたらすぐに税関や検疫の手続きができるよう、八丈島を目視する海域で携帯電話にて各機関へ帰港する日程などの連絡を取った。しかしその後日本へ近づくほどに北西の向かい風が強くなり、航路を沖縄方向へ向けるか、関東方面に行くしか選択肢がなくなった。安藤は東に向けて進路を取った。そして<ベンガルII>は静岡の焼津港に到着した。到着はしたが、日本への入国は申請した場所(衣浦港)以外の港では審査を受けられないので、焼津港には入港・上陸もできなかった。港のすぐ前にアンカリングをして一日を過ごすことになった。神谷は夜にふと目を覚まし一人デッキでたたずんでいた。すると陸上に信号らしき明かりが見えた。しかしその信号はいつまで経っても赤色のままで変わらない。不思議に思い双眼鏡で見ると、それは信号ではなく居酒屋の赤提灯だった。ひと月ぶりに冷えたビールの飲める場所がすぐ近くにありながら、そこへ行けないことが本当に恨めしく思えた。
翌日、暗いうちに出航した<ベンガルII>は碧南ヨットクラブへ無事到着した。入国の手続きを終えたあと神谷たちは冷えた美味しいビールで乾杯をした。
宇都野重治<IBERIA>のエピソード
宇都野重治は、2000年に碧南ヨットクラブに入会した。鹿児島カップ火山めぐり外洋ヨットレースや三宅島などへ他艇のクルーとして参加する他は、三河湾、伊勢湾、三重県などを中心に愛艇<IBERIA>(ニューポート28)を駆ってクルージングを楽しむ日々を送っていた。
平成28年(2016年)に縁あって、沖縄県宜野湾港マリーナに<IBERIAIII>(ハンター31)を置くことになった。それ以後、愛知県と沖縄県の2重のヨットライフを楽しむようになる。愛知県では相変わらず三河湾、伊勢湾、三重県へのクルージングだが、沖縄に拠点を置いたことにより、慶良間諸島を中心に珊瑚礁の美しい海をクルージングできるようになった。
こんな2重のヨットライフを楽しむ日々を送っているある日、碧南ヨットクラブを一人の中国人青年が訪ねてくる。「いつかヨットで世界一周がしたいので、このクラブに入りたい。」という。ヨットを持っているのか問うと「持っていない」という。ヨットに乗った経験はあるのか問うと「乗ったことがない」と言う。まずは誰かの船にクルーとして乗せてもらって、ヨットの技術をマスターしてから自分の船を持った方が良いだろうとの周囲の助言により、誰かがこの中国人青年をクルーとして引き取ることになった。それが宇都野重治だった。これ以後、宇都野の愛知県でのヨットライフには中国青年が加わることになった。
宇都野にはもう一つ夢があった。それは海外で『いつかは外洋クルーズ』の夢であった。その夢を実現するチャンスが令和元年(2019年)6月に訪れた。世界を2周した経験を持つ知人がカナリア諸島へのクルージングをしないかと誘ってきた。千載一遇のチャンスであった。宇都野は参加を承諾し、飛行機で日本からスペインまで飛んだ。アルメリア港に乗船者が現地集合し、午前8時に出港し、マラガ、プエルト ベナルマデナ、ムエレ デ エスペデ、プエルト ソトグランテ、ジブラルタル(イギリス領)、セウタ(スペインの海外領土)、タンジェ(モロッコ)、カサブランカ(モロッコ)、モハンメディア(モロッコ)、ラバト(モロッコ) 、カナリア諸島、アレシーフェ マリーナ(ランサローテ)、プラヤ・デル カスティージョ(ベントウラ島) モロ バブル港(ベントウラ島)、ラス・パルマス(グランカナルア島)まで約1カ月間のクルージングを楽しんだ。
このクルージングの模様は、HYCニュースに記事が掲載されている。
鈴木一久<TSUBASA>のエピソード
鈴木一久<TSUBASA>は、シングルハンドで日本各地を旅するブルーウォーターセーラーである。これまでにクルーズしたところは、三宅島(5回)、九州一周(1回)、瀬戸内海(10回以上)、高知沖を通っての沖縄(1回)、この旅で鈴木は、シングルハンドでオーバーナイト・クルーズしている。帰り、日向灘沖で、夜中にペラにホンダワラが絡み、エンジンが使えなくなった。真っ暗な海に一人で潜って、ペラに絡んだホンダワラを外し、航海をつづけたという。
2023年4月29日、鈴木は、ついに日本一周のクルージングに出かけた。紀伊半島を周り、瀬戸内海を抜けて、関門海峡を通過し、日本海に出た。
角島、江崎、温泉津、大社などの日本海側の港を辿り、能登半島の輪島、舳倉島、粟島などを巡った。日本海側の港は、北前船の廻船航路の歴史があり、風情のある街を楽しんだという。秋田県の鯵ヶ沢を巡り、6月20日に津軽海峡を越えて超えて松前港にわたる。ここから北海道を江差、小樽、稚内など時計回りに周り、利尻島に渡り、絶品7,500円のバフンウニ丼を食べた。その後、宗谷岬を周り、枝幸港、網走港、知床岬の先にある文吉湾に入るとヒグマが出ることがあるそうで、入って写真を撮ってすぐに出たそうだ。シャチもクジラもアザラシにも出会うことはなかった。知床岬を回って羅臼港、根室に入る。根室港に入ると海上保安庁の職員や役所の職員が出てきて、ここはプレジャーボートの係留はできないので出て行けという。言われても出て行くことは出来ない。安全に関わることだ。いろいろごねていると緊急避難であれば、係留することはできるとのこと。緊急ということで係留させてもらった。鈴木にとって根室港は二度と行きたくない港になったようだ。他に北海道では、「出し風」に気をつけないといけないという。「出し風」とは山から谷のようにえぐれた地形が海に向かって続いている地形で、そこが風の通り道になって急に強風が吹いてくるという。さらに穏やかな風で安心していると岬を回った途端に強風に変わることもあるという。こんなことに注意しながら、鈴木は、北海道南岸をたどり、7月22日に函館の金森倉庫前に愛艇<TSUBASA>を槍付けした。函館でイカの刺身と日本酒を楽しみ、下北半島に渡る。岩手県のリアス式海岸の景観を楽しみながら南下し、東日本大震災の被害を受けた各地を経由し、塩釜まで来くると気温が暑くなり、イオンのショッピングセンターでハンディ扇風機を買った。房総半島先の千倉漁港まで来て、5号、6号、7号と立て続けの台風のため足止めを喰らった。足止めは、9泊10日に及んだ。さらに伊豆の大島から西伊豆の妻良港に向かう途中、爪木崎沖で黒潮の向かい潮にあい、1〜2ktしか速度が出なかった。妻良港から遠州灘を越えて、8月21日に無事碧南ヨットクラブに帰港した。
兵藤了基<オリオン>のエピソード
兵藤了基<オリオン>は、2002年に中古クルーザーを入手し、たちまちヨットの虜になった。蒲郡の三谷にある三谷ヨットクラブのハーバーを拠点にクルージングを楽しむ毎日を送っていたが、クルージングを続ける日々を送るうちにクルージング先で出会った碧南ヨットクラブの会員と交流し、その後、何度か碧南ヨットクラブを訪問するようになった。
そこで、碧南ヨットクラブのバリバリのブルーウォータ派である渡邉起世<ボヘミアン>、川村暢夫<オリーブ>、室田義隆<あいま>、浅野正文<風童>、竹田茂<チャージ>、高木廣行<モルディブ>たちとヨット談義を繰り返し、時には宴会にも招かれ、四方山話に花を咲かせているうちに、兵藤は、クルージング派の多くのベテランセーラーや2艇の世界周航艇、何艇もの日本周航艇の在籍、その他いずれも猛者揃いの碧南ヨットクラブの活動の活発さにすっかり心を奪われ、ついに碧南ヨットクラブに転籍してしまった。これは、平成26年(2014年)のことである。
転籍してすぐに兵藤は、屋久島へのクルージングを敢行する。兵藤のヨットライフについては、ブログに詳しく書かれているので、詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。長距離クルージングを目指す方には、参考になるたくさんの情報があるのでお勧めです。
その後、2015年には、沖縄へのクルージングを敢行し、2017年には、本州と北海道を一周するクルージングを実行した。そして2018年、兵藤は、小笠原諸島から北大東島、南大東島、与那原マリーナを経由し、台湾に行くため石垣島で出国手続きを行い出国した。しかし、台風に阻まれてやむなく断念した。
台湾への思いは燻り続け、翌年、2019年に台湾クルージングを敢行する。
2019年4月7日 碧南ヨットクラブを出航し、大王崎の波切港から紀伊勝浦へとクルーズし、勝浦の港に入るとシーズン初めにも関わらず、3艇のヨットが舫っている。近ついてみるとそのうちの1艇は、碧南ヨットクラブの会員で、いつもご夫婦でロングクルージングをされている長江真人<ビーグル>であった。他の2艇も知り合いである。偶然の再会を喜び、しばし歓談。その後、串本を経由し、周参見に行くとここでも長江真人<ビーグル>と再会した。長江真人と兵藤は、入会前から各泊地で何度となく会っており、長江からは直接的に「碧南のブルーウォーター色」を強く印象付けられ、影響を受けたと兵藤は語っている。その後、田辺など紀伊半島西岸を巡り、徳島の日和佐港、室津港、高知ヨットクラブ、土佐佐賀港などと四国の南岸を辿り、宮崎(門川港、油津港)から種子島(西之表港)へ、屋久島(宮之浦港)、トカラ列島(口之島)、トカラ列島(悪石島)、奄美大島(名瀬港)、沖永良部島(和泊港)などを経由して、5月4日に与論島に到着。レンタカーで百合ヶ浜へ行き、ウミガメを見物、その後、与論島銀座通りのお祭りで屋台を楽しむ。翌日の5月5日、出航し、名護漁港を経由して、5月6日に宜野湾マリーナに到着した。
ここで、兵藤は、碧南ヨットクラブの正会員ではあるが、宜野湾マリーナにもヨットを定期係留している宇都野重治<IBERIA>と再会、さらにこれまでの航海で知り合った数多くのセーラーとの再会を果たす。兵藤は、宜野湾マリーナに6日間滞在し、滞在中は運動不足を解消するためウォーキングで観光地を探訪したり、買い物したり、コインランドリーへ行ったりして時間を過ごす。
5月12日に宜野湾マリーナを出航し、宮古島を経由し、5月15日に石垣島に到着。ここで出国手続きを行う。台湾への入国手続きは、前回、うまく手続きができなかったことをブログに書き、それをみていた台湾在住のセーラーが手伝ってくれることになった。その台湾在住のセーラーと17日午後には到着できるとメールで連絡を取り合う。5月16日 3:00に石垣島を出航。台湾 新北市 淡水に進路をとる。係留場所などはすべて台湾在住のセーラーが手配してくれている。雷の伴う激しい雨の中、台湾に向けて船を進めると明るくなった頃に台湾の沿岸にたどり着く。連れ潮に乗って沿岸を進み、淡水マリーナに到着。コーストガード庁舎前に立っていた職員の指示に従い、12:00少し前に保安署の前の岸壁に着岸。台湾在住のセーラーも駆けつけ、マリーナに船を移動。ここで入国審査が済むまで待機。いろいろすったもんだの末、入国審査と検疫が完了。ホテルでようやく安眠。
5月18日からクルーと二人で列車での台湾一周の旅に出る。台湾は日本語が話せる方が多く、楽しい旅行となったようですが、ここは、普通の観光旅行なので、詳しく知りたい方は、ブログをご覧ください。
5月24日淡水マリーナに戻った。台湾在住のセーラーが、翌、25日に出国の手続きをしてくれていたが、25日は悪天候の予報。出国日を26日に変更し、26日5:00に出航、石垣島を目指し、25ktの向かい風の中船を走らせ、31時間30分後の27日13:30に石垣島石垣港に到着。税関、検疫などの入国手続きを済ませ、石垣島のホテルのベッドに横になった。石垣島で連泊し、29日に出航。宜野湾マリーナに行く予定だったが、逆潮のため速度が出せず、途中宮古島に立ち寄り、宜野湾マリーナには6月2日に到着。しばらく宜野湾マリーナに滞在し、6月16日宜野湾マリーナを出航。屋久島一湊漁港、枕崎港、下甑島、天草、ハウステンボス、平戸、呼子、博多漁港を経由し、そのまま瀬戸内海に進むのではなく、日本海側の萩、中小畑港、島根県 温泉津、出雲の大社港、境港、隠岐島、あたりを巡った後、福岡県岩屋漁港に戻り、その後、関門海峡を通り、姫島へ。別府へ立ち寄り、山口県上関室津港へとたどり、瀬戸内海各所を巡って、10月9日にようやく碧南ヨットクラブのある新川港に帰港した。
その後も兵藤は、北海道一周や八丈島など日本各地をクルージングして巡っている。夢は、いつか、フィリピンへ、さらにその先へと巡り続けている。
その他のブルーウォータセーラー
長距離クルージングをした一部の会員の業績を紹介しましたが、これは2023年時点でインタビュー可能なほんの一部の会員の活動であり、他にも長距離クルージングをされた方は数多くいます。残念ながらすでにクラブを退会していますが、長江真人<ビーグル>、小粥昭六<タートル>など私が入会した時に活動されていた方や、ずっと前に退会された方も数多くおられるということを最後に申し添えておきます。
この時代の社会の出来事
平成23年(2011年) 東日本大震災発生、サッカー女子日本代表(なでしこジャパン)W杯優勝
平成24年(2012年) 山中伸弥京都大学教授、ノーベル生理学・医学賞受賞
平成26年(2014年) 御嶽山噴火、57名が死亡、6名不明
平成27年(2015年) ラグビーW杯 イングランド大会で日本代表がラグビー強国南アフリカを破る
平成28年(2016年) アメリカ大統領選挙でトランプ氏が勝利
令和元年(2019年) 香港で学生らが大規模デモ
令和2年(2020年) 新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、パンデミックを引き起こす
令和4年(2022年) ロシアによるウクライナ軍事侵攻が始まる